未来の窓|2000

 
[未来の窓34]

オン・デマンド出版の意味するもの

 最近とみにオン・デマンド出版にかんする話題が多くなってきた。取次会社の日販がこの九月に起こした株式会社ブッキング、それにつづいてトーハンが凸版印刷と組んだデジタル・パブリッシング・サービス、そして全国的な書店チェーンの紀伊国屋や丸善がはじめたオン・デマンドによる読者からの直接受注、図書館流通センター(TRC)による図書館向けオン・デマンドなど、こうした生産ポイントにおける受注出版(すなわちこれがオン・デマンドのオリジナルの意味だ)の新しい方法が現実のものになりつつある。これにくわえてインターネットを介してのオンライン書店の出現による流通・販売レベルでの急速な展開など、出版界にもようやくニュー・ウェーブが押し寄せてきているのである。

 さらには、各出版社が自社のホームページをつぎつぎに開設して直販ルートを設定するなど、これまでの版元―取次―書店―読者といういわゆる出版界の「正常ルート」とは別個のチャンネルがどんどん現われてきており、しかもこれらのルートによる売上げ比率がどんどん上昇しているとのことである。これにくわえて宅配便による出版社と読者、出版社と書店との直結サービスなどの新たなヴァリエーションの出現もあってますます出版物の流通経路は複雑化してきている。

 これらは本質的にこれまでの出版流通のありかたを根底的に転換させる契機を秘めている。従来の取次ないし書店という中間経路をいわば中抜きにして生産者(出版社)と消費者(読者)を直接リンクしてしまおうとする傾向をもっているからである。もちろんこれがただちに中間経路の解体や崩壊に結びつくわけではないが、いまのようなインターネットをつうじての情報発信が多様性と瞬時性をもってくると、本を必要とする読者がどこにアクセスするかによってどこかが中抜きされてくるという事態はおそらく避けられないことになるだろう。だからこそ、品切れ本のオン・デマンドによる復刊と販売のチャンネルを取次会社が確保しておこうとするモチベーションにも理由がないわけではない。

 しかし、ここでオン・デマンド出版というものがそもそもどういう性質のものであるか、もういちど考えておくことが必要だと思う。つまりオン・デマンド出版は誰のためのものなのか、という根本問題を抜きにして技術論に走っても意味がないということだ。

 十一月二十二日に紀伊国屋ホールで開催されたシンポジウム《オン・デマンド出版の力》は、オン・デマンド出版がそもそも書き手たる作家の側からの強いインセンティブにもとづいた行為であり、その作家のものを読みたいと思う少数の読者の便宜のためにつくりだされた手法であることがよくわかる、とても刺戟にみちたシンポジウムであったと思う。

 今回のシンポジウムでは、オン・デマンド出版の世界的先駆けであるスウェーデンの作家協会会長ペーテル・クルマン氏の講演があり、またこのクルマン氏の主張に共感した津野海太郎氏をはじめとする「本とコンピュータ」編集スタッフがくわわったパネル・ディスカッションが用意されていた。時間が十分にとれなかったせいか、議論はかならずしも意を尽くしたものとはならなかったきらいがあるが、事前に送ってもらった趣意書によれば、「この催しでは、オン・デマンド出版を本の流通というよりも、本をつくる側における新しい技術革命としてとらえ」るという視点が明確に打ち出されていた。そしてオン・デマンド出版とは「注文生産による少部数出版」と定義づけられているのである。

 言いかえれば、オン・デマンド出版とは、出版社の採算ベースにあわないとみなされた出版物をいかにしてそれを読みたい読者に手渡すかというモチーフにもとづいた出版行為のひとつの可能性の試みである、ということができる。そこには経済効率至上主義の商業出版からは隔絶した、ものを書き考える人間の、自分の書きたいものをひとりでも多くの読者に読まれたいという作家本来の欲望に深く根ざした動機づけがある。もちろんそこには商業ベースでの出版も可能なものもふくまれているかもしれないが、とりあえず経済観念から自由に、原型的なかたちで読者の目にさらされたいという書き手の強い意志なり意欲を実現するルートが現実の力を得つつあるということである。言ってみれば、これは同人誌とか個人誌のような世界なのかもしれない。したがって注文がこなければ、それはオン・デマンド出版にさえもならないという峻厳な事実も一方では残るのである。また出版社の編集者が関与しないことによって、より洗練された高品質の出版物になる可能性をそれはあらかじめ断念しているといえるかもしれない。

 しかしそうしたさまざまな問題はあっても、そうしたなかにすぐれた出版物が存在しうるだろうことは、これまでの世界文学史ひとつ思い浮かべてみても明らかである。これは先ほどの話につなげていえば、流通経路の中抜きどころではなく、出版社さえも不要とされる出版形態が存在しうるということでもある。そうした出版社の中抜きという事態が起こりうることはあっても、それはむしろ出版社にとって喜ばしいことだと考えたい。なにも商業出版がすべてではないし、こうした書き手の主体的な努力によって新しい著者とすぐれた読者のひろがりが再構築されるならば、今後の出版にも希望がでてくると思うのである。むしろ出版社はそうした新しい形態の出版物までも視野にいれて、可能性のある著者を発掘していくようにしなければならないということである。いうまでもなく、これはいま現在のわれわれ出版人にいつも要請されている課題なのであるのだが。

 こう考えてくると、最近の取次や書店によるオン・デマンド出版への動きにも、もうひとつ不十分なところがあるのは否定できない。なぜなら、それはいまのところすでに品切れになった本の復刊という方向以外の展望をもっていないからである。つまりいちどは出版されたが、現状ではもはや重版することができなくなったような本が対象であるにすぎないからである。それももちろん大事なことであるが、それだけでなくデジタル・コンテンツのネット販売のようなことまで考えていく必要があるだろう、というのがわたしのいまの理解である。そこをどう考えていくのか。

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[未来の窓35]

専門書出版社のホームページ

 ミレニアム二〇〇〇年はさしあたりなにごともなく始まった。不景気はあいかわらずだが、それでも心配されたパソコンの誤作動によるいわゆる二〇〇〇年問題──金融パニックもテポドン発射もいまのところ起こっていない。これで大丈夫という保証はどこにもないが、まずはひと安心といったところだろう。

 わたしたちがたまたま一千年紀の終りから生きていて二千年紀の始まりを通過したというだけの偶然にすぎないのに、どこもかしこもミレニアム、ミレニアムというわけだ。狂った高性能コンピュータが人間と宇宙を支配するようになるスタンリー・キューブリックの予言的SF映画「2001年宇宙の旅」では、まだずっと先の未来だったはずの二〇〇一年も早くも一年以内に現実化する。独自の時間観念をもつ中国ではすでに世界に先がけて二十一世紀に突入している。

 そんなわけでもないが、小社も一千年紀の最後、一九九九年十二月になってホームページを立ち上げることになった。まだほんの仮りのかたちのトップページと昨年度の新刊リスト、それに若干の新刊の表紙写真に簡単な解説を付したものにすぎないが、なんとか二〇〇〇年には間に合わせておきたかった。ちなみに未來社ホームページのアドレスは〈http://www.miraisha.co.jp〉である。すでに見ていただいた方からはなかなかきれいなトップページだとのお褒めをいただいている。ワインカラーでアクセントをつけたのだが、小社の創立に深いかかわりのある木下順二氏と山本安英さんが主宰されていた「ぶどうの会」(のちの山本安英の会、すでに解散)にちなんだ色でどうしてもトップページを飾りたかったからである。なお、ホームページ製作はすでにこのジャンルでは定評を得ている萩原印刷=DCUBEに担当してもらっている。この春までには完成するが、それまでにもできたところから順次お見せしていく予定である。興味をもっていただける方はぜひ覗いてみていただきたい。

 この間、いろいろな出版社のサイトを開いてみたが、それぞれに社風と自社の刊行物の特徴をいかした工夫をされているのは当然だが、そう何度も見てみたいという魅力あふれるサイトは数少ないようである。ホームページが目録がわりではあまり意味がないので、やはりそこには読者や著者との交流の仕組みなり、読者が本を購入しやすくなるシステムとサービスなりが必要となってくる。いろいろな出版社がホームページを開いているなかで、やはり専門書出版社というのは特定少数の読者との結びつきを緊密にする努力がとりわけ必要だと思う。

 いまのところ未來社ホームページでは新旧の出版物の紹介はもちろんのこと、さまざまな意見交換の場をつくっていきたいと思っている。また企画発表やオンラインニュースあるいはオンラインマガジンのようなものも実現したいと考えている。さしあたりは本欄の連載をテキストファイルで簡単に読めるようにアップロードしたい。読者との意見交換、批判的交流などができればありがたいからである。ご意見は〈info@miraisha.co.jp〉あてにお願いしたい。

 以前、この欄でも書いたことだが、インターネットの活用は専門書出版社ほど利用率が高くなるはずである。それにはいくつかの理由があるが、出版物の性格によるところが圧倒的におおきい。その理由をここで整理してみれば、一般的にはつぎのようになる。

一、専門書は概して大量販売が考えられないから、もともと少部数出版であり、書店でもあまり取り扱われない。したがって注文でもしなければ、なかなか入手できない。

二、しかしその本が必要な少数の読者には、たとえ書店店頭に見つからなくても、なんとか入手しようとする強い動機が存在する。

三、しかも専門書の読者は相対的に高度な知識や情報を身につけているひとが多いから、コンピュータ使用率も高いだろうし、インターネットの利用率も高いはずである。

四、またそうした読者は、新しい知識や情報への好奇心が強いため、おおむね多忙な生活スタイルを築いているので、書店や図書館へ行って本を探すような時間さえなかなかもてないでいるかもしれない。

五、専門書は初版部数はすくないけれどもロングで売れて重版することもあり、古い本でも在庫があり在庫情報がきちんとしていれば、インターネット等の検索と発注により入手が可能になる。

六、専門書の読者は、たとえばある本の引用文献や参照文献からほかの本の情報を得るなど、一般的に読書行為をつうじて関連書情報ネットワークをおのずと構築しており、在庫情報と注文の仕組みとリンクさえできれば、中身をいちいち確認しないでも購入しようとする傾向がある。

 やや図式的に整理したが、とりあえず暫定的に言えることはこんなところであろうか。いずれにせよ、専門書出版がこうした読者群を対象にしている以上、最低限このぐらいは意識しておいたほうがいいだろう。

 さて、こうしたかたちでホームページを開こうとしているものの、本の売買ということで言えば、出版社のホームページそのものは副次的なものでしかないというのが実態である。なぜなら、読者は特定の書物の入手を目的とするか、特定の出版社に関心をもってアプローチしようとするかぎりでしか、最初から出版社のホームページを見にいくことはしないと思うからである。むしろ書店に行くつもりで最近はやりのオンライン書店のホームページを見にいくか、書協その他の公共的な団体のサイトを見にいくのがふつうだろう。出版社のサイトはそれらのサイトで見つかった本のよりくわしい情報を知るためのリンク先にすぎないのではないだろうか。もちろんそれでよいのだが、ここで言いたいのはしかるべき団体ないしグループとのリンクをしっかり張ることの重要性である。場合によっては、そうしたグループを結成して協同して読者へ情報提供するという方法などもこれからの専門書出版社のとるべき道ではないかと思う。人文会や歴史書積極的に懇話会などの専門書出版社グループが率先してこうしたグループ活動を始めるべきではなかろうか。

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[未来の窓36]

悪の凡庸さの危険──高橋哲哉氏の近業から

 高橋哲哉氏の最近の活動ぶりが目覚ましい。昨年末からことしの一月にかけて論集、対談集、翻訳本がつぎつぎと送り届けられてきて、それぞれが氏の現在の関心事を強烈にアピールする相互連関性とアクチュアルな問題意識にあふれるものだからである。いまさら氏の仕事の充実に驚くような関係ではないが、それにしてもこの八面六臂の活躍には頭が下がる。加藤典洋氏とのいわゆる「歴史主体論争」をはじめとして、クロード・ランズマンの映画「ショアー」の日本への導入をきっかけとするナチス・ドイツによるユダヤ人絶滅政策の哲学的・歴史的問題の再検討、さらには「従軍慰安婦」問題を端緒とする戦時中の日本軍による集団的犯罪行為の糾明と戦後の日本政府による責任回避の姿勢への追及、さらにはネオナショナリズムとして九〇年代後半に台頭してきた自由主義史観派との理論闘争など、いまや氏の存在抜きでは日本の現代思想のアクチュアリティは保証できないほどである。

 ここは高橋哲哉氏(これ以後は、これまでのつきあいに甘えて哲哉さんと呼ばせてもらう)の最近の仕事の内容を論評する場所ではないが、哲哉さんの与えてくれるインパクトになにがしかの返答をしておきたい誘惑にかられるのである。

 とりあえずさきほど触れた三冊の本を正確に紹介しておこう。主として加藤典洋氏との「歴史主体論争」を収録した『戦後責任論』(講談社)、徐京植(ソ・キョンシク)氏との雑誌「世界」での連続対談を収録した『断絶の世紀 証言の時代──戦争の記憶をめぐる対話』(岩波書店)、さらに哲哉さん自身が紹介に力を入れているアイヒマン裁判のドキュメンタリー映画「スペシャリスト」の監督たちによる書物の翻訳、ロニー・ブローマン/エイアル・シヴァン(高橋哲哉・堀潤之訳)『不服従を讃えて──「スペシャリスト」アイヒマンと現代』(産業図書)の三冊である。とくにあとの二冊は昨年一年間での仕事なのだから、驚きだ。

 最初の『戦後責任論』は、一九九五年一月に加藤典洋氏が「群像」に発表した「敗戦後論」に哲哉さんが反論をくわえることによって始まった「歴史主体論争」の関連文献と講演を収めたもので、五年間の文献が収録されており、刊行がずっと待たれていたものである。加藤氏の『敗戦後論』(講談社)の刊行に遅れること二年あまり、論争という面ではやや遅きに失した感がなくもないが、そのぶんその後のネオナショナリズム批判、日の丸・君が代法制化問題への批判など、たんに加藤典洋氏との論争のみに終始しない包括的な「戦後責任」をめぐる論になっていて、さすがである。この論争がはじまるまえから加藤典洋氏の論について哲哉さんと長々と意見交換をしたことがいまとなっては隔世の感があるのは、それだけ哲哉さんのこの問題への持続的な取り組みと粘り強い論及が説得力と迫力を生みだしているからである。

 加藤氏の一種クセ球のような、アジアの二千万の死者たちへ謝罪するための責任主体の立ち上げという論点は、一見すると心情的に共感を招きやすい情動的なもので、多くの「進歩的知識人」がそれに面食らわされたという経緯をもつ。閣僚の戦争責任をめぐる失言があいつぐなかで、そうした失言・妄言を生みだす「内向きの自己」と、外から与えられた平和憲法にひたすら依拠する左翼勢力の「外向きの自己」という戦後日本の「人格分裂」というテーマはある種の新鮮な論法として戦後五〇年の時点で現われたのである。右でも左でもない立場を標榜するこうした手のこんだ論法が、じつは戦時中の日本軍に蹂躙され凌辱されたアジア諸国の被害者たちの抗議の叫びにいっさい耳をふさぎ、自国内でのみ完結する「主体」の再構築、多分に心情的で実感的な自意識のまやかしの満足にすぎなかったことがひろく理解されるには、哲哉さんの水ももらさぬ緻密な分析が必要だったのだ。

 本書でもっとも印象的なのは、「責任」responsibilityが原義では「応答可能性」という意味をももつことの指摘であり、そうした「責任=応答可能性」としてアジアの無辜の死者たち、そして元「従軍慰安婦」たちの抗議の声に応答することがわれわれの戦後責任であるという哲哉さんの断固たる姿勢である。哲哉さんによればこの責任は「日本社会をよりラディカルな意味で『民主的』な社会に、すなわち、_¨異質な他者同士が相互の他者性を尊重しあうための装置¨_といえるような社会に変えていく責任」(傍点原文)であるということになる。デリダやレヴィナスに依拠しながらこうした問題を論ずる哲哉さんはすばらしく明快であり、説得的である。応答することの責任という過剰な負荷が哲哉さんの言動の原動力になっていることがよくわかる。

 あまりスペースがなくなってしまったが、哲哉さんに教えてもらって映画「スペシャリスト」の試写を観たのは昨年十二月のことだった。ランズマンの「ショアー」に勝るとも劣らぬ力の入れようでこの映画を紹介している哲哉さんが提示しているのは、やはり歴史のなかでの責任のありかたであり、ナチのホロコーストのような歴史的犯罪の一部始終を闇にほうむることなく、歴史の経験としてあますところなく明らかにするべきであるという観点なのである。

 ハンナ・アーレントの『イェルサレムのアイヒマン』(みすず書房刊)に触発されたシヴァンはイスラエル人でありながら、戦時中ナチのユダヤ人移送のスペシャリスト、アイヒマンに事態の本質をなかば知りつつ協力したユダヤ人評議会(ユーデンラート)のありかたに批判的であり、そうした自分たちの同胞にたいして自己批判的な視点をもたず、もっぱらアイヒマンの悪魔ぶりを強調しようとするイスラエル政府のプロパガンダ的なスタンドプレーに反対してフランスに移住したドキュメンタリー映画作家である。この映画を観ると、「模範的な勤め人」アイヒマンに象徴される「悪の凡庸さbanality」(アーレントの著書のサブタイトル、ただし邦訳では「悪の陳腐さ」になっていて、これは首肯しがたい)こそがナチス・ドイツや旧日本軍の巨大な悪の推進力だったこと、こうした人間の無知と思い上がりによる災厄は人為的であり、これからも再発しないとは限らない危険な問題であることが、現代日本の思想動向とパラレルに検証されるべきだということがあらためて認識されなければならないのである。

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[未来の窓37]

文化創造としての出版──相賀昌宏氏への異論

 出版の世界とは、そこで仕事をするひとたちやさまざまな関連取引業者、そして著者や執筆者との、それこそ生活や生き方、考え方までふくんだ総体的なかかわりをもつ世界である。それは業界全体で一兆円の取引高にも満たない比較的小規模な領域であるにもかかわらず、一方では言論の力と直接むすびついていることもあって、いきおい相対的におおきな発言力や影響力をもたらしうる業界なのである。したがってそこにはさまざまな幻想や思い込みなどが繁殖しがちである。そこから生ずるさまざまな問題点があることを認めたうえで、なお出版という業種が他業種にはみられない特殊な精神的・文化的な機能をはたす役割をもつとわたしは考えるが、そのわたしにはとうてい首肯しがたい主張があらわれた。

 日本書店商業組合連合会(日書連)の機関紙である「全国書店新聞」二月十六日号に見開き二ページにわたって掲載された小学館・相賀昌宏社長の「職業としての出版──経済と文化の関係」という講演記録がそれだ。講演そのものは一月十一日に浦和の書店・須原屋本店で開かれた「須原屋研修生OB会」研修会でおこなわれたものとのことである。

 一読するともっともな主張が並べられているだけのこの講演のどこが、なぜ問題なのか。

 まず相賀氏の主張をみてみよう。冒頭で小学館の創業者でもある祖父の相賀武夫氏の言い残した「出版は営利事業である」ということばを称揚しながら、その祖父のことばを出版業におけるつぎの四つの自戒に敷衍する。つまり「出版業と比べて他の仕事を文化的に低いものとみなし、出版に携わる自分は他人より上にいるという思い上がった意識」、「職業人であるにもかかわらず金銭感覚が欠如しているかのように振る舞ったり、経理や商取引に関する不勉強を恥じない態度」、「自分たちの仕事は世間の商売とは違うという意識で世俗から距離を置いたり、専門性の殻に閉じこもるといった保身の心」、「利益を出せないことに対する言い訳と諦めといった、欺瞞の心」の四つである。いちいち思い当たるところのある議論だが、そんな出版人ばかりがいるわけではないし、そもそも相賀氏がどうしてそんな低次元の問題を引き合いに出して自説の根拠にすえようとしたかが問題なのだ。

 相賀氏の主張の根幹はつぎの論点に集約されよう。

《出版は文化との関係で、その役割や質が常に問われてきた。しかし、「文化」という言葉の陰で、出版業界では経済常識が軽んじられてきたのではないか。その結果、(中略)結局は人間の心を諦めや閉塞感や不信感や嫉妬の中で荒廃させ、文化的な力を弱めていくという逆説が成り立っているのではないか。経済生活の質と文化は相互に切り離せないものである。(中略)経済的にしっかりすることから文化の力を高めていくことが、あらためて重要な課題として立ち現れている。やはり経済抜きには文化も成り立たない。(中略)出版に携わる人たちは何となく現実から離れたところに、あらかじめ与えられた出版というものがあるかのように振る舞っているとしか思えないときがある。幻想の中に生きているといったら言い過ぎであろうか。》

 もちろん言い過ぎである。「経済抜きには文化も成り立たない」とは原理的には言えるが、経済行為のありかたもふくめたすべてが文化の実質であり、経済的に成り立たない場合でも文化的に価値のあるものは出版にかぎらず無数にある。むしろ経済的に無理を承知でもやらなければならないところに文化を作り出す意味があることのほうが多いのではないか。最初から経済的に成り立つことを考えたのでは、ほんとうに文化的価値のある試みに手をつけることはできない。経済問題を解決してから文化の問題に取り組む、などというご都合主義は実践されたことがない絵空事である。ここにあるのは経済が先か、文化が先かといういつに変わらぬ不毛な議論でしかない。「われわれの雑誌作りは、こちらで国政を論じ、あちらで裸を出す。そうしたものを人間そのものの感性として取り込む」と相賀氏はみずからの商売としての出版をこんなふうに言う。文化とはこんな節操のない、上っ面なものではない。

 相賀氏の講演タイトルに示唆をあたえたのかもしれないマックス・ウェーバーの『職業としての学問』の一節にはこうある。「学問に生きるものは、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ、自分はここに_¨のちのちまで残るような¨_仕事を達成したという、おそらく生涯に二度とは味われぬであろうような深い喜びを感じることができる。実際に価値ありかつ完璧の域に達しているような業績は、こんにちではみな専門家的になしとげられたものばかりである。」(岩波文庫二二ページ、傍点原文)

 相賀氏の言うように、「志の出版」ということばを嫌うのは自由だが、出版において文化的価値の創出ではなく、「商人の心を持つこと」を一番に強調するのはやはり貧しい発想である。文化的な出版行為とは専門家がみずからの専門領域で全力を傾けた結果、はじめて既成の文化を更新するのであって、「お客様が気付く前に、その半歩先で落ちているゴミを拾ってさしあげること」などでは断じてない。

 以前にもこの欄で書いたように、出版における文化性とは読者のニーズにあわせて本を作ることにあるのではなく、読者の未知の知的欲求を喚び起こすような新しい知や文化を創造的に作り出すことであり、そうした力と可能性をもった著者や執筆者と協同して停滞をうち破ることにある。

 相賀氏の見解にたいする疑念はまだほかにもあるが、いまはこれだけにとどめておきたい。大手出版社の経営者であり、書協のニュー・リーダーとも目されている相賀氏だけに、「全国書店新聞」のような媒体への掲載を承認するにあたっては、その発言が公式発言として大きく受け止められることをもっと配慮すべきだったとわたしは見る。その結果がおそらく相賀氏の意図に反して、文化的な出版を心がけて苦闘している小出版社や専門書出版社の努力を間接的に誹謗し抑圧することにもつながりかねないのである。そうした言説の政治性を感ずるがゆえに、わたしは必要以上の批判をしているのかもしれない。これがもしわたしだけの誤解であるならば、出版界のためにもさいわいである。

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[未来の窓38]

究極の編集技法にむけて

 この欄でもすでに何度か言及したが、著者の原稿がデジタルデータによる入稿であることは出版にとってかなり有利な条件であることは否定できない。もちろん、デジタルデータといってもものによってはいろいろ問題のあることが多く、見かけとちがってあまり役に立たない場合さえあるのは事実だ。フロッピーディスクの中身をあけてみると、びっくりするほど乱雑だったり未整理だったりするファイル内容であるほうがむしろ普通なのである。

 電算写植の登場以来すでに二十年ほど経過している出版業界であるが、これまではどちらかと言えば印刷技術上の問題は印刷業者まかせで、編集者は著者からのフロッピー・データをいわばブラックボックスのままで印刷所に渡してファイル処理してもらうことをあたりまえだと思ってきたのではなかろうか。すくなくともファイルの中身を一度ものぞくことなく、出力された原稿を割付けするだけであとは印刷所まかせ、という編集者がいまでも圧倒的に多いのではなかろうか。

 かく言うわたしなどにもかつて経験があるが、フロッピー・データでの入稿の場合は入力の手間が省けるから組版コストは大幅に下げられるはずだと考えていたことがある。しかし印刷所からの請求は新規入力のものとくらべてページあたり通常で二割ほどしか安くならないので、どうして安くできないのか疑問を呈したこともたびたびあった。自分でファイル内容を確認するようになったいまから見ると、それは無理からぬ部分もあることがわかるのである。とくに初期のころなどは印刷所の編集機の水準から言っても、また活版から切り替えたあとの印刷現場の職人の技術水準から言っても、かかる手間やコストのほうが予想外に大きく、にもかかわらずそれに見合うだけの請求をするわけにもいかず、多くはどちらかと言えば泣き寝入りさせられていた印刷所も少なくなかったはずである。それでもまだ仕事の全体的な供給量は十分あった時代だったからなんとかやりくりできたのだろう。

 昨今の不況のなかでは、そうしたありかたで出版業と印刷業がもたれあいながらやりくりしていくという形態は存続がむずかしくなってきたと思わざるをえない。もちろん、出版社が印刷所に無理を押しつけるといった弱肉強食の論理がまかり通るのを黙過するわけにもいかないが、やはりそれぞれに生き残りをかけた努力をしなければ、早晩この不況を乗り越えていくことはできないだろう。

 そんななかで未來社のような専門書志向の小出版社にとって、これまでのような手法での編集や営業ではしだいに成り立たなくなっていくだろうことはいまや火を見るより明らかである。営業的にはインターネット活用による新しい販売チャンネルの確立を急がなければならない。書店ルートでの展開が専門書や小部数出版にとってますます不利になろうとしているのを見るにつけ、しかしまた専門書の読者は書店ルート以外にもまだまだ存在していることをさまざまな機会に確認することができるにつけ、なんとかこうした読者と書店以外の場所でも出会うチャンスを確保しなければならないからである。適切な情報を送り入手経路の便宜をはかることさえできれば、専門書の読者は必要な書籍の購入に目を向けてくれるだろう。インターネットでの書籍検索という手法は、言ってみれば余計な情報をフィルターにかけて知りたい情報に接近することを容易にするのである。衝動買いよりも目的買いにふさわしいのがインターネットによる書籍販売ではなかろうか。

 しかしこれだけではまだ問題の片面にふれているにすぎない。もうひとつの問題はこの不況のなかで本来の出版事業をいかに効率的に実現することができるかという点にかかわっている。つまり売れないけれども文化的に価値のある出版物をいかにして世に送り出すことができるか、しかもそれをなんとか経営的に成り立たせることができるかという課題がいま専門書出版社に重くのしかかっているのである。

 この点にかんしては、冒頭に述べたように、これまで印刷所まかせだった原稿ファイルの処理を、編集者がパソコン・レベルで簡便かつ高速な編集技法をもちいれば実現できることを認識してほしいと思う。

 簡単に言えば、著者および印刷所の協力と理解を得ることができれば、入稿用の原稿データのテキストファイルを編集者が整形と変換をほどこし、適切な指示をそこに書き込むことによって、印刷所の高機能の編集機による一括変換処理が可能になるということであり、そのまま責了ゲラになるという仕組みである。もちろん著者との校正のやりとりは変換されたデータをプリントアウトすることによって事前に(何度でも)可能であり、ここで内容のチェック、変更は徹底してなされるはずだから心配はない。ほとんどゲラと同じような組みにして出力できるテキストファイル用のプリント・ユーティリティもあるので、それを使えばゲラの校正と同じ感覚で仕事を進めることもできるのである。

 さらにはわたしが現在研究開発中のテキスト一括処理プログラムが完成すれば、元の原稿を一種のフィルターにかけるようにしてさまざまな不具合や変更が一挙にできるようになるだろう。究極的には、この一括処理のフィルターにかければ、原稿の内容におうじてそれぞれ若干の手を加えるだけで、原稿がそのまま本の最終形態に変換されるという方法論であり、そうした方法の確立までもう一歩のところまできていると言っても過言ではない。とにかく、こうした技法の習得によって(一)大幅なコストダウンと(二)刊行のためのスピードアップ、さらには(三)徹底した原稿内容のチェックができるようになりつつある。この三種の神器がテキスト処理という編集技法のアルファでありオメガなのである。ちなみにわたしがこの二年ほどのあいだに手がけた二十点あまりの単行本の大半は、この技法によって初校責了で実現している。

 じつはこうした新しい編集技法について「週刊読書人」で[出版のためのテキスト実践技法]という連載を始めたばかりである。とりあえずは最小限の基礎篇といったところから始めているが、つづけて具体的な実践マニュアルを展開する予定である。興味をもっていただける方はぜひ読んでみていただきたい。

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[未来の窓39]

転機のなかの書物復権事業

 ことしもまた〈書物復権〉8社の会による共同復刊事業がこの六月に始まる。四年目を迎えるこの事業もすこしずつ読者のあいだに定着してきているのが、読者からのメッセージを読むとよくわかる。以前なら当然のように版を重ねていたいわゆる名著が、いまや品切れになるとともに絶版同様に追い込まれてしまう。〈書物復権〉で復刊された書物でさえ、いったん品切れになってしまうとふたたび絶版同様になりかねない。その意味ではこの時代ほど書物受難のときはこれまでなかったのではないか。そしてこの受難の時代がこの先いずれ好転するという兆しもいまのところはないのである。

 これはなにも既刊の書物ばかりの話でないのは言うまでもない。最近の文庫出版は刊行当初からよほどのことがないかぎり初版売り切りというのが常態化しているらしい。つまり重版は前提とされていない。しかも以前にくらべて初版部数自体が減少しているとのことである。未來社のように最初から部数を一五〇〇部程度、せいぜい二〇〇〇部に限定してきた専門書出版社にとってはいずれにせよ桁ちがいの部数であることに変わりはないが、それにしてもいったん作った本が重版にまわることがきわめて少なくなっている現状は、出版社にとっても、関連する印刷・製本業者にとってもいよいよ死活問題となってきている。

 そんななかで、公共図書館が「市民迎合の公立無料貸本屋」化していると警告した能勢仁氏の論文「増加一途の図書館貸出冊数──書籍販売の伸びをおびやかす一要因」(「新文化」四月二十日号掲載)がきっかけになって、日本図書館協会企画調査部長の松岡要氏が「図書館の貸出増加は書籍販売を脅かすのか」という反論を同じ「新文化」五月十一日号に発表しているのが興味深い。すでにわたしがこの[未来の窓]の連載二十八回目「図書館の役割はどう変わるべきか」(本誌一九九九年七月号)で言及した問題とも関連するが、図書館のありかたをめぐって根本的な立場のちがい、考え方のちがいが明瞭になっているように思われる。

 能勢氏の主張の眼目は、書籍販売冊数が二〇〇五年には冊数において公共図書館の貸出しを下回るだろうという予測にもとづいて、この制度自体が読者サービスという名目で本来の書籍販売を阻害することにつながりかねないということである。読者が無料貸出しをしている公共図書館に流れてしまい、本を買わなくなってしまうことによって書店経営が成り立たなくなることを懸念するのが、書店コンサルタントとしての能勢氏の立場からの主張であろう。

 これにたいして、松岡氏は能勢氏の依拠するデータが日本図書館協会発行の『日本の図書館』であることを確認したうえで、図書館の現状について問題点をいくつか列挙する。ひとつは図書館不在の市町村が過半数を占めるという実態、しかも複数の図書館をもつのが一五パーセントにすぎないという実態をまず挙げる。ついで、増大しつづける出版点数に反比例して削減されつづける資料費という問題。さらに司書が増えないばかりか人事管理方針による他部署への配転など図書館員としての専門性の蓄積が思うにまかせないという行政上の問題。松岡氏はこうした問題点を挙げたうえで、能勢論文における「貸出冊数」のデータの解釈への異論を述べている。つまり貸出しのなかに個人貸出しのほかに団体貸出しが含まれていること、貸出冊数のなかに雑誌や視聴覚資料などもカウントされていることなどを挙げ、能勢氏の把握している「貸出冊数」は実態をかなり大きく超えた数字になっていることを示唆している。そして「市民迎合の公立無料貸本屋」化している例証としてのベストセラーの複本購入にかんしては、大都市の図書館における「局地的な現象」で極端に多いものとは思われないと反論している。この点は細かい実態把握ができないので判断を保留するしかないが、ほんとうに松岡氏の言うとおりかどうか疑問なしとしない。たとえ大都市の一部の大図書館だけの話かもしれないが、それ自体かなりの無駄である事実は以前にも指摘したとおりである。

 しかし、そうは言っても松岡氏はこうも言っている。

「図書館は出版流通において、しかるべき地位を得たいと願っている。優れた図書の安定的な出版の保障を、図書館が一定数購入できることにより実現させたい」と。もっともすぐつづけてこれは現状では「極めて困難である」とも言っているのだが。

 それはともかく、こうした考えはわれわれのような小零細の専門書出版社にとっては貴重な論点である。大手出版社にとっての数百部と小零細出版社にとってのそれとではその比重がまったくちがうのは、初版部数が数千から万に及ぶ大手出版社と千部、二千部というところで呻吟している小零細出版社の現状にたいする認識の問題である。出版文化の発展のことを言うなら、たとえば〈書物復権〉8社の会の復刊事業が一点あたりたかだか千部の発行にすぎないことを図書館員はもっともっと考えるべきではないだろうか。

 ともあれ、こうした図書館のかかえる問題は、図書館員の認識や意識の問題であるとともに、いやそれ以上に行政の問題であることはいまさら言うまでもない。図書館の整備・充実こそは国民の知的水準のバロメーターのひとつである。まともな読書人がなかなか公共図書館を利用できない、利用したがらないという誰もが感じている現状の打破こそがなによりも問題なのではなかろうか。「金太郎飴図書館」には誰も魅力を感じないからである。

 話が書物復権事業から図書館のありかたの方向へそれてしまった。すでにご存じの方もおられると思うが、ことしから〈書物復権〉の復刊書は8社の会のそれぞれのホームページで紹介されているばかりか、これに賛同する取次等のホームページなどでも投票やリクエストができるようになった。まだ大きな成果を挙げるところまではいっていないが、読者からのメッセージにもあるように、現在品切れ中の書籍がリクエストによるオンデマンド出版などもからめて復活しうる道筋は着々とつけられつつある。インターネットを通じての販売チャンネルの拡大がこれからどういう展開をもつことになるのか、書物復権事業も新たな転機のもとにあることはたしかである。

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[未来の窓40]

未來社ホームページの試みと挑戦

 未來社ホームページがようやく本稼働することになった。ちょうどこの文章を書いている六月十三日の深夜、予定を半日早めてついにリニューアル・オープンということになり、これまで半年ほど仮トップページのままだった小社のホームページが正式に公開されることになったわけである。なにを今ごろと言われても仕方がない。一九〇〇年代ぎりぎりの昨年末になんとか立ち上げたものの、思いがけず準備に手間どってしまった。小人数の出版社のわりには刊行点数や在庫点数もそこそこあり、それなりの歴史もある小社のようなところでは、やはりある程度やむをえないことだったのかもしれないといまは思っている。今回の未來社ホームページ制作には長年の取引先でもある萩原印刷=DCUBEがあたってくれたのだが、すでに多くの出版社のホームページを専門的に手がけているだけあって、まずは十分きれいな仕上がりにしてくれている。ちなみにURLは《http://www.miraisha.co.jp/》である。ぜひアクセスして覗いていただきたい。

 わたしも本欄で出版社(とりわけ専門書出版社)のホームページのありかた等についていろいろ書いてきているので、実際に自分の目でその効力を確かめられないできたことには内心忸怩たるものがあった。どれだけのひとが小社のホームページを覗き、関心をもってくれるのか不安がないと言えば嘘になる。しかし小社のように宣伝力も販売のための人員もすくないところで、なおかつ売りにくい専門書を中心に注文制を採用しているところでは、どうしてもインターネットというメディアを活用する必要があるはずなのである。

 こうした観点から、小社のホームページでは他の出版社ホームページには見られない特徴を出していこうと考えてきた。通常の検索と購入のシステムを導入し、近刊情報を配し、各種メディアや研究グループとのリンクを張るのは当然のことだが、ここでは出版界の関連情報、著者・編集関連の技術情報、著者や研究会にかんする学問動向、周辺情報などもどんどん取り入れていきたい。つまり直接の書籍販売と結びつかなくてもいい、出版に関心のあるひとにとって有用な情報やコンテンツを開陳していく場にしたいのである。

 その意味で小社ホームページ内の「未來社アーカイヴ」というコーナーにはとりわけ力を入れたいと思っている。すでにいくつかの出版関連情報を収録しているが、そのひとつが本欄での連載[未来の窓]である。出版界のその時どきの問題へのわたしなりの関心や、親しくさせてもらっている著者や著作物についての感想を記したものであるが、これはすでに三年以上のテキストデータの蓄積があり、「未来」本誌と同一のデータが閲覧できるようにした。関心をもっていただける方のためにこれまでの全文をダウンロードすることもできるようにしてある。

 また、この「未來社アーカイヴ」には、「週刊読書人」でわたしが隔週連載している[出版のためのテキスト実践技法]の連載分も、読書人編集部の了解にもとづいて収録させてもらう。ただしこれは営業上、掲載後一か月以上したものでないと掲載しないことにしていることをお断りしておかなければならない。ただ、これは今後のとくに専門書出版にとっては、著者においても編集者においても必ずや役に立つデジタル技法であり、いわば今後の出版界にとって革命的な技法だとわたしが信じているものなので、なんとか関係者に広く理解と協力をもとめたいものなのである。インターネット上でやりとりされるデジタルデータにかんする業界標準フォーマットへの提言であるとともに、直接出版にかかわるデジタルコンテンツの処理技法にかんするノウハウになっている。くわしくはそちらにゆずるが、以前、こうしたコンセプトにおおいに関心をしめし「革命的な出版技法」だと言ってくれた新聞記者がいた反面、こうした技法をたんに出版業界内の狭い技術論にすぎないとしか認識できない若い編集者たちもいた。わたしの考えでは、編集者ほど感度の鈍いひとが多いし、えてしてこれまでの自分の手法にこだわりつづけて保守的であるひとが多い。だから、むしろほんとうに自分の本を出したいと真剣に考えている著者たちのほうにこそ希望があると思っている。この技法はそのひとたちのために役に立つはずなのである。

 そうした考えもあって、この「未來社アーカイヴ」には、著者が原稿データを入力するにあたっての具体的な問題点や方法を整理した「原稿入力マニュアル」も収録してある。すくなくとも出版をめざす著者にとっては知っておいたほうがいい細かいヒントや方法、考え方を簡略に示したマニュアルである。これはわたしがある著者につくるよう唆されてとりあえずつくってみた暫定的なものではあるが、その実質的な内容はいずれ[出版のためのテキスト実践技法]連載にもうすこしくわしい説明をつけて書いておこうと思っている問題の先取りであり、要約になっているはずである。また、これに関連したものとして、「編集用日本語表記統一基準」なるおこがましいタイトルのリストをこのマニュアルの付録のようなものとして収録してある。これも暫定的なものだが、一冊の本や論文のなかで、著者があまり注意を払っていないと思われる表記や送り仮名の不統一について一般的な一覧表にしてみたもので、これらを参考に著者それぞれが自分の表記法についてきちんと自覚し、意識的に選択してほしいと思うことから発想されたものである。こうした一覧表はケースによってはいくらでも増補も改訂もすることができるし、もしこれを利用しようとするひとがいたら、ぜひ自分用にカスタマイズされることをお奨めしたい。これらはそれぞれの著者なり編集者なりが自分流に仕事をスピードアップしたり正確さをチェックしたりするためのツールであり、そのためのヒントにすぎないからである。ただそうしたツールを相互に情報交換し、お互いの役に立つツールに鍛え上げていくこともあっていいのではないかと考える次第である。

 そんなわけで、いろいろな狙いをもったホームページを作りたいと考えているし、著者と編集者、読者の意見交流の場や発表の場にできたらいいと思っているので、今後の未來社ホームページの試みに関心をもっていただきたいとひたすら願う心境である。

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[未来の窓41]

未來社ホームページのその後

 前回、未來社ホームページが本格稼働することになったことをお伝えした。おもしろいもので、リニューアル・オープン当日にさっそくここから注文が入り、インターネットの威力をまざまざと感じさせられたものだが、そればかりではなく、知り合いからの激励メールや感想メール、読者からの刊行予定の問合せなどのほかに、思いがけない反応などがあった。

 たとえばそのひとつの例だが、「ACADEMIC RESOURCE GUIDE」というメールマガジンの編集者から前回の「[未来の窓40]未來社ホームページの試みと挑戦」を転載させてほしいという申し入れを受けた。おもに学術系の研究者が対象とのことで、小社のような出版物の読者や著者とはおおいに重なるところがあり、喜んで転載了解のお返事をさせてもらった。こうしたインターネット上のさまざまなメディアとの相互交流や意見交換によって、たんに書籍の検索・販売に終わらない出版社ホームページの特色が出せるのではないかと考えている。出版社のホームページというのは一種のヴァーチャル・ショップなのであり、言ってみれば書店と図書館と研究施設が同居しているものなのだという認識をわたしはもっている。そこに必要な情報や魅力がなければ、ひとは見にきてくれないのである。

「未來社アーカイヴ」のページを見てくれた読者からは[出版のためのテキスト実践技法]についての好意的な感想が寄せられ、いずれ一冊にまとめられるときのための書名まで考慮してもらった。また、ある著者は原稿整理するにあたっておなじアーカイヴにある「原稿入力マニュアル」を参考に入力することにしたと知らせてきてくれている。ある編集者は「日本語表記統一基準」といった表記の統一にかんする認識がいまの著者にはもはやあまりなくなっていることを指摘し、こうした一覧表の提示はありがたいということを伝えてきてくれている。いずれも第一線で仕事をしているひとの対応だけに実感があり、とてもうれしい。  たまたまこの一文を書いている前日に取引先の印刷所で現場の優秀なオペレーターと、実践的なテキスト処理の技法についてさまざまな観点から意見交換をおこなう機会があった。最近のDTPの急速な発展やフォントをめぐる印刷業界の問題などをふくめ、これからの出版業自体がこうした外的な諸条件への適切な対応抜きには成立しなくなるだろうという新しい状況がうまれている。こうしたなかでなによりも出版の原点であるのは、著者の原稿データであり、それをもっともシンプルに実現しているのがテキストファイルなのだという共通認識をもつことができた。いかに効率よく処理し、いかに安全にデータ管理をおこなうべきか、ということは印刷業界にとってもこれからの課題になるはずだ。今後の出版のありかたを考えていくうえでも、ますます[出版のためのテキスト実践技法]をきたえあげていく必要に迫られていると言ってよいだろう。

 それはともかく、本格的にホームページを立ち上げたことにたいして、いまのところはまだわずかかもしれないが、こうした反応が出てきているということは、今後の書籍販売においても有力な販売チャネルができたことを意味する。

 未來社ホームページからの注文の場合、読者は宅急便での受取りのほかに、小社の特約店・常備店に限ってではあるが書店受取りができるようにした。これは本来の書籍流通を尊重するだけでなく、小社の書籍を日ごろ扱ってくれている書店へのささやかな還元のつもりである。売上げになかなか寄与できない小社の出版物を常備してくれている書店にとっては、思いがけないかたちで注文に結びつくことになるのであって、苦しい書店経営にいくらかでも貢献したいからである。もちろん読者にとっても手っ取り早い書籍の入手方法であろう。

 こうした販売チャネルの拡大によって、これまでの出版社→取次→書店という、いわゆる「正常ルート」のありかた自体が根本的に問い直される時代にはいってきた。うわさされる「アマゾン・ドット・コム」やドイツからのBOLの日本書籍市場参入という新事態を前にして、出版界三者の対応の遅れは深刻である。自己の権益を守ることに汲々としているうちにますます業界全体が枯渇し、読者離れが嵩じているのではないか。

 しかもそこへもってきて来春に控えた再販制度見直し問題にかんして、公正取引委員会からまたも大きな課題を突きつけられているらしい。というのは、公取の担当主要メンバーが人事異動によって交替したこともあって、これまで何度も繰り返されてきた初歩的な疑問や矛盾と混乱もふくむ質問事項が非公式に出版界に提出されているからである。五月三十一日付けの「書籍・雑誌再販における論点及び質問事項」と題するペーパーの、「第1 再販制度の必要性について」の「2―(3)書籍間の内部補助等を通じた出版企画の多様性の維持について」のなかに、たとえば「企画の段階では、それなりの採算が採れることを前提に、部数や定価を決めて出版されるのではないか。全く採算が採れないことが分かっているのに出版することはあるのか(経営的に苦しくても出すものと、出さないものとの区分は、誰がどのような基準で判断するのか)。仮にあるとすれば、それはどのようなもので、その理由は何か。」とか、「安定的な収益源のない出版社では、どのようにして内部補助を行うのか。業界全体として行うのか。」といった調子である。まったくこれは小社のことではないか(笑)と思わざるをえない。よけいなお世話である。しかも、そうした事態への対応策として現実離れした提案もある。つまり「内部補助による出版企画の多様性の確保の必要性からすれば、業界全体でファンドを積み、文化的な出版に補助をする方が首尾一貫していると考えられるが、どうか。」など、空想的としか言いようがない。ちなみにここで言う「内部補助」とは聞きなれないことばだが、要するに売れる書籍で得た黒字を赤字部門の補填に充てることを言うらしい。業界全体で一種の業者間内部補助を実現してみたらという提案なのである。もちろんそんなウマイ話があるわけがないのである。

(小社代表取締役)

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[未来の窓42]

『ブレヒト戯曲全集』の日本翻訳文化賞受賞にふれて

 このほど第37回日本翻訳文化賞に小社刊行の岩淵達治訳『ブレヒト戯曲全集』全8巻が決定したという知らせを日本翻訳家協会から受けた。正式発表は九月一日だそうだが、事前公表は別にかまわないということなので、本誌の読者には早めにお知らせしておきたい。この全集はすでに優れた演劇書に贈られる湯浅芳子賞を受賞しており、ドイツでの権威あるレッシング賞の受賞も内定しているとかで、トリプル受賞ということになる。直接編集にたずさわった者としてもこの快挙をおおいに喜びたい。

 この全集は岩淵達治氏の個人全訳というところに特長があり、ブレヒト生誕一〇〇周年の一九九八年の二月から巻数順に刊行を始め、三か月に一冊のペースで昨一九九九年十一月に第8巻が出て完結した。平均三五〇~四〇〇ページで合計三八篇の戯曲が収録されている。

 二十世紀を代表する演劇作家としてのブレヒトは、これまで日本でもさまざまな版が出ており、岩波文庫などにも代表作のいくつかは収録されている。俳優座を率いていた故・千田是也氏などは戦前からドイツでのブレヒト体験をもとに早くからブレヒト劇の紹介や上演に取り組んでこられたが、こうした筋金入りの新劇系のひととは別に、いわゆる六〇年代以降のアングラ、小劇場運動などを展開していったより若い層にもブレヒトの手法や方法論はどんどん吸収されていったようだ。

 現代演劇でいまではあたりまえのように感じられる日常世界を〈異化〉する手法、つまり惰性的習慣的な行為や感覚の意味を問い直し、そこに新しい意味を見出そうとする問題意識は、書かれたテクスト(戯曲)を絶対視してきた近代劇の再現=上演(リプリゼンテーション)の演劇観を否定し、舞台と観客の関係を身体論的な地平から問い直すことにつながる。あらかじめ完結している劇のテクストを舞台で再現してみせるという意識からではなく、演劇とはいままさに眼前の舞台で俳優(たち)によって演じられているということの歴然たる事実性、偶然性にもとづいてはじめて実現されるのだという、いまから思えば当然の認識がブレヒトによってようやくもたらされたのである。

 そもそもあらためて考えてみれば、舞台上に俳優が、客席には観客が、同じ時間を共有して存在するという演劇に特有の濃密な空間性は映画とも文学とも異質のものであり、そこにこそ〈演劇〉というすぐれて古代的な様式が現代においても異質性として存在しうる基盤があるのである。ブレヒトの〈教育劇〉という独自のスタイルは、舞台が観客の意識を創造的に変革し、またそのことによって演劇自体もまた変革されるという双方向的な交通を実現しようとするものだった。

 こうした演劇の身体論的地平は文学などにおいても同じような問題として、とくに一九六〇年代以降にあらわれてきた。つまりこれまで自明のものとされてきた書くことそのもののありかたがあらためて問い直されたのである。フランスなどを中心に展開した構造主義はそうした近代そのものを問い直そうとする近代批判という新しい現実認識のありかたを示したのだった。そのなかの中心人物のひとり、ロラン・バルトがフランスにおけるブレヒト受容の最尖端であったという事実がなによりもブレヒトの現代性をあらわしている。

 そして日本においてブレヒトを早くから紹介し、上演などをつうじてブレヒト劇の問題性を問いかけてきたのが、前述した千田是也氏であり、本全集の訳者・岩淵達治氏であったことはよく知られていよう。「ブレヒトをモダンという位相に閉じ込めている種族に入るのかもしれない」と自己認識されている岩淵氏は第8巻に付された作品解題の最後にこんなふうに書かれている。

「ここで総括の意味も含めて言えば、私がブレヒトの理性の演劇(弁証法の演劇、叙事的演劇など言葉はなんでもいいが)を日本に紹介しようとしてきたのは、新劇成立以来試みられてきたモダンな演劇の総仕上げの掉尾にある試みと位置づけていたからだ。」

 いまやブレヒトの後継者と目されてきたハイナー・ミュラー流の斬新な演劇が、たんに演劇というジャンルを超えたところに成立するようになっている。ポストモダン演劇の本格的なスタートという見方もあるミュラーの「ハムレットマシーン」なども岩淵氏は先駆的に紹介されてきたが、ここではいかにも岩淵氏らしく、日本における新劇(モダン)と新劇以後のさまざまな潮流との断絶を埋めようとする根拠をブレヒト劇の翻訳におかれたのだと思う。

 とにかく岩淵氏の本全集にたいする意気込みのほどはこの二年間のあいだに全8巻を出し切ってしまったということからもうかがわれると思うが、それまでの蓄積でもある旧訳、上演用台本の本格的な手入れや改訳はもちろんのこと、あらたに一〇本ほどを訳し下ろされたことからもおわかりいただけると思う。七〇歳を過ぎてからのワープロ専用機からのパソコンへの乗り換えなどもその努力の現われの一例にすぎない(ただし、これはあまりスムースにはいかなかったようであるが)。

 こうした熱意ある試みの結果が今回の「日本翻訳文化賞」受賞であったことは、岩淵氏の仕事ぶりを身近に体験することができた者にとってもうれしいばかりでなく、評価されるべきものが正当に評価されうる土壌がまだこの国に存在することの証明でもあり、ありがたいことである。

 これに力を得て、『ブレヒト戯曲全集』とは別にブレヒトによる古典の改作劇と呼ばれる作品五篇も、本巻の別巻として年内刊行をめざしてこれから編集に入るところである。これらはもともと岩淵氏の希望には入っていたものであるが、オリジナル戯曲でないことと全体の分量の関係で予定からはずしてしまったものである。ただブレヒトにおける改作劇の意味は、たんなる上演のための改作というものにとどまらない、演劇史上でも重要な方法論的意味があることが再確認できた以上、それらのうちの代表的な作品をまとめて本巻にたいする別巻として一冊にすることは、今後のブレヒト研究にとっても演劇研究にとっても貴重な資料になることは間違いないだろう。

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[未来の窓43]

インターネットに出版の未来はあるか

 本がますます売れなくなっている。真夏日(気温三十度以上)が六十日を超える、観測史上二番目というこの夏の記録的な暑さによってますます加速された感のある出版業界の低調ぶりは、業界紙によれば四年連続の対前年比割れを間違いなく確定的なものにしそうだとのことである。すでに昨年の段階で売上げは六年前の水準と同じ程度に低下している。さらにこの調子だと二〇〇〇年度は一九八〇年代の水準に転落するという予想することもできる。すくなくとも書籍の売上げ部数ではバブル崩壊の一九八八年並みになりそうだとさえいわれている。PDF形式であれ、今後の実用化しだいでは別になんでもかまわない。要は、そういう資料を次世代の専門家たちは当然のものとして活用するようになるだろうという認識を出版界があらかじめもつことである。

 出版大手各社の決算報告などにうかがわれる数字からも軒並み減収減益という情勢がはっきりしてきた。大手取次の日販が新刊書の仕入れを大幅に制限する措置に移行したことも不景気感をさらにいっそう拡張した。来年春に予定されている公正取引委員会による再販制度見直しの動きもここへきて依然として玉虫色である。出版界はこうした爆弾をかかえたまま、二十一世紀に突入することになる。PDF形式であれ、今後の実用化しだいでは別になんでもかまわない。要は、そういう資料を次世代の専門家たちは当然のものとして活用するようになるだろうという認識を出版界があらかじめもつことである。PDF形式であれ、今後の実用化しだいでは別になんでもかまわない。要は、そういう資料を次世代の専門家たちは当然のものとして活用するようになるだろうという認識を出版界があらかじめもつことである。

 こうしたなかで、出版物のインターネット利用による販売の可能性をめぐってさまざまなチャンネル獲得競争が激化してきた。日販、トーハン、大阪屋といった取次各社がそれぞれウェブセンターのようなインターネット販売に対応するための在庫センターのインフラ構築を始めている。出版社とのあいだで取引条件をめぐって未解決の部分を残したままの在庫確保を躍起になって先行しているといった感がつよい。PDF形式であれ、今後の実用化しだいでは別になんでもかまわない。要は、そういう資料を次世代の専門家たちは当然のものとして活用するようになるだろうという認識を出版界があらかじめもつことである。PDF形式であれ、今後の実用化しだいでは別になんでもかまわない。要は、そういう資料を次世代の専門家たちは当然のものとして活用するようになるだろうという認識を出版界があらかじめもつことである。

 また、ドイツの大手出版社ベルテルスマンによる日本市場参入(BOL)もあり、世界最大手アマゾン・コムの参入もいよいよ本決まりになったと聞く。そして国内ではこの分野ではもはや老舗と言ってもいい「本の宅急便」(ヤマト運輸)による各社ホームページからの受注~宅配のシステムもかなり一般的になっている。紀伊国屋、丸善、三省堂といったナショナル書店チェーンもすでにインターネット販売にかなりの実績を積み上げている。それに対応して全国の書店組織である日書連も本の在庫情報の電子化などによる流通の迅速化を急速に進めている。PDF形式であれ、今後の実用化しだいでは別になんでもかまわない。要は、そういう資料を次世代の専門家たちは当然のものとして活用するようになるだろうという認識を出版界があらかじめもつことである。

 もちろん、こうしたさまざまな販売チャンネルが広がるには、今後の出版流通の新展開をインターネットに見出そうとするそれぞれの思惑があるのだが、現状はまだまだインフラ整備の段階にすぎない。どんなに厳しくなったとはいえ、書店店頭での販売が圧倒的に高いシェアをあげていることに変わりはない。逆に言えば、全体の落ち込みをカバーできるほどインターネットのシェアが伸びていないのが現状である。PDF形式であれ、今後の実用化しだいでは別になんでもかまわない。要は、そういう資料を次世代の専門家たちは当然のものとして活用するようになるだろうという認識を出版界があらかじめもつことである。PDF形式であれ、今後の実用化しだいでは別になんでもかまわない。要は、そういう資料を次世代の専門家たちは当然のものとして活用するようになるだろうという認識を出版界があらかじめもつことである。

 本欄でも何度か触れているように、専門書出版社のホームページは、本の内容上からも書店店頭での品揃え不足の点からも、たんに情報の補完装置という以上の実際上の販売チャンネルになりうるものである。しかし、未來社ホームページでのわずかなデータからでもうかがうことができるのは、出版社ホームページは情報を得る手段ではあっても、そこでダイレクトに注文をするひとはきわめて少ないのではないかということである。日本ではまだまだネット注文をする習慣が一般化していないのだろう。新刊の注文よりも既刊書の注文がほとんどであるのが未來社ホームページからの注文の実情である。ということは新刊なら書店で手に取ってみてから購入しようという読者心理が働いているのかもしれない。注文制をしいている未來社の出版物は特約店・常備店といえども、まとめて仕入れをしてくれることは稀だから、実際のところなかなか本を手に取ってもらうことはできないのにかかわらず、である。やはり相対的に高価になりがちな書籍が多いだけに、やむをえないのだろうか。いずれにせよ、売上げの1%以下の現状からなんとか全体の一割、さらには二割、三割と伸ばしていきたいし、伸ばしていかざるをえない。PDF形式であれ、今後の実用化しだいでは別になんでもかまわない。要は、そういう資料を次世代の専門家たちは当然のものとして活用するようになるだろうという認識を出版界があらかじめもつことである。

 今後の出版界の将来について考えると、出版物のインターネット販売の可能性を考慮に入れないわけにはいかないのは自明である。とはいえ、これまでのように紙媒体の書籍というパッケージの流通経路が変わるだけだと考えるのは、いささか楽観的すぎるであろう。出版物はたしかに便利な情報パッケージではあるが、百科事典類がCD―ROMにとってかわられつつあるように、書物というパッケージ形態が携帯・収容・使用においてもっとも適切とみなされる種類の出版物だけが特権的に残存することになっていくのではあるまいか。専門書、ある種の実用書など、反復使用あるいは情報保存の必要性の高いものが書物の形態を必要にするのではないか。ここへきて週刊誌やマンガなどのような、反復利用性も保存の必要性もすくない出版物の急激な売上げ減をみると、こうした未来イメージも独断とばかりは言いきれまい。PDF形式であれ、今後の実用化しだいでは別になんでもかまわない。要は、そういう資料を次世代の専門家たちは当然のものとして活用するようになるだろうという認識を出版界があらかじめもつことである。

 もうひとつ考えられるのは、書籍の内容と同一のデジタル・コンテンツの販売の可能性である。紙媒体と同時に、いくらか値段を下げるかたちでデジタル・コンテンツを希望者に販売することは今後かならず実現することだと思う。とりわけ専門書などの場合、必要な情報を自分の専用のデータベースとして活用するような研究者、専門家が近い将来かならず出現すると思うからである。というより、出版界がそのようなコンテンツを自由に提供できるようになれば、専門家はそれを自分のパソコンのハードディスクに溜め込み、自由に検索したり再利用することがいますぐでもできるようになるからである。いまはそれを許す条件が十分にそろっていないために現実化していないだけの話ではなかろうか。その意味では、出版界は近い将来のこうしたコンテンツ販売にもいまから対処していかなければならないはずである。PDF形式であれ、今後の実用化しだいでは別になんでもかまわない。要は、そういう資料を次世代の専門家たちは当然のものとして活用するようになるだろうという認識を出版界があらかじめもつことである。

 そのためにもデジタル・コンテンツの中身そのものを著者・読者にもわかりやすいかたちで標準化する必要がある。つまり誰が見てもそれと認識することができ、しかも初心者にも簡単に操作できるファイル形式が標準化されていく必要がある。わたしの持論はテキストファイルに特定のタグを付加した形式がいちばん簡単だと思われるが、HTML形式であれ、PDF形式であれ、今後の実用化しだいでは別になんでもかまわない。要は、そういう資料を次世代の専門家たちは当然のものとして活用するようになるだろうという認識を出版界があらかじめもつことである。

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[未来の窓44]

業界の縮小という選択は可能か?

「本は物理的消滅の危機に瀕している(これは我々の時代の最も喧伝された共通認識の一つである)」とエドゥアール・グリッサンは最近刊行されたばかりの『全 - 世界論』(恒川邦夫訳、みすず書房)の「世界の本」という文章を衝撃的に書き起こしている。その理由として視聴覚と情報機器の発達が本を差別することが挙げられているが、グリッサンはさらにつづけてこう書いている。

「世界を一つの全体として夢みあるいは描くことができる時代は去った。かつてはそうした全体としての世界を想定し、その生成を考え、持続的調和を素描することが可能だった。我々がいま考えられる生成は終わりのない生成である。予測不能性と不連続性が我々をあくまでとらえて離さない。」

 この黙示録的宣告は、しかしながら、〈書物という坩堝〉が現在のインターネットによる情報の展開と増殖による圧迫をどれほど受けようと、書物が不変のなにか、恒常的なものの明証性を喚起し保存するものであることを否定するものではない。「インターネットは世界を展開し、世界を繁茂するがままに我々に提供するが、本は世界の不変数を照射し、解放する」とグリッサンは言うのである。ここで〈不変数〉と呼ばれるものは「世界についての一つの考え方がもう一つの世界観と出会う場所」としての〈共通場〉のこととされている。

 マルチニック島出身でフランス語系クレオールの詩人・作家であるグリッサンの認識する方向性は、世界の辺境に身を置く立場からの発言であるだけにかえって世界性を感じさせるものがあるが、インターネットによる世界の拡散性・重層性と書物による世界の凝縮性の対比において、書物のもつ意味をあらためて価値づけようとするものである。

「書物は不変数を予見し、意図を完成させることによって、停止し、現在時を基礎づけ、入植させることができる。書物は世界の過剰を、味気なくしたり、骨ぬきにしようとせずに、文字通りの意味から脱却させる。」

 書物という形態の将来に不安をもつわれわれにとっては力づよい認識であると言っていい。かつてフランスの詩人ステファヌ・マラルメは世界のすべてを凝縮したような一冊の絶対の書物を夢想したが、いまは書物の絶対性が問題なのではなく、過剰なる世界をそこにとり集め、相互に反射させ、世界の意味をあらためて考えさせる触媒の働きをするのが書物の役割だということになるだろうか。書物はそこからなにか固定的な知識や認識や感動を引き出すだけのものではなく、この過剰で不透明な世界をまえに人間をあらたな発見へとみちびく〈坩堝〉となるのである。

 予想される二十一世紀でのさらなる世界のネットワーク化のなかで書物という形態はいったいどうなっていくのだろうか。書物の本質についてのグリッサンの明快な指摘にもかかわらず、書物が購入されなくなり読まれなくなりつつある現在の事態は基本的に進行することは避けられないと思う。世界各国で進行していると言われる書籍の発行部数減、売上げ部数減の厳粛な事実は、いたずらに嘆いてみても事態が解決するわけではないことを教えている。

 現代に生きるわれわれは世界に対峙するにあたって書物というメディア以外にもさまざまなチャンネルをもてるようになっている。さまざまな情報獲得の手段を自在に選択できるようになっているのであるから、かつてのようにどうしても書物というほとんど唯一の情報獲得の手段に頼らなくてもすむようになった。これは書物に専門的にかかわる者にとっては不利な事態であっても、一般のひとびとにとってはむしろ好ましい事態だといえるはずである。したがって書物が、そして書物に専門的にかかわる著者や出版人が二十一世紀においても生き延びることが可能だとしたら、書物のありかたについての根本的な認識の転換が必要になるだろうことは間違いない。

 それがはたしてどんなことなのか、簡単に予断は許されないことだが、おそらく確実に言えることは、現状の出版の世界がいまのスケールのままで存続することはむずかしいだろうというこの一点である。専門書の世界ではすでにこれまでの最低ロットであった一五〇〇~二〇〇〇部という数字を大きく割り込み、へたをすると一〇〇〇部にも届かないという本がどんどん出はじめている。これまでだったら初版はもちろんのこと、ある程度は重版も期待することができた種類の本がいまや軒並みそうした現実にさらされているのである。もちろんそもそも一〇〇〇部以上は最初から望めない種類の純学術書は別としてである。そしてこのことは一般書、実用書、児童書の世界でも相当な勢いで進んでおり、こうしたことの結果として出版業界の縮小、再編成というのは時間の問題になっていくだろう。

 すでに大手取次の日販が相当数の希望退職者を募ったところ予想をはるかに上回る希望者が現われたと聞く。また中堅出版社でわれわれにもきわめてかかわりの多い平凡社がかなり思い切った経営合理化をすすめることになり、未來社としても倉庫問題で直接の影響をこうむることになった。いまのところ大きな問題になることはなさそうだが、在庫管理上の対応を急ぎ迫られることになった。書店業界においても廃業に追い込まれている中小書店の数はますます増えつづけている。いずれにせよ、ここへきて出版業界三者それぞれにおいて、余裕のあるなしにかかわりなく、規模の縮小、廃業、倒産という流れはもはやとどめようがないところまできているのが出版業の現状である。

 したがって今後は業界三者がいたずらに競い合い自己利益の追求にのみ走るのではなく、ともに共存しあいながら無駄を切り捨てて落ち着くべきところまで縮小していくという覚悟が必要ではないかと思う。グリッサンの指摘するような書物の必然性が可能であるかぎり、出版の必要もまた存続するのであるから、必要最小限のレベルにとどまることを意図するかぎり、本当の危険は回避できると思うからである。そしてそこには心ある著者の協力もまた必要となる。これまでのように大部数出版が望めなくなっている以上、著者と出版社の関係も変わらざるをえないだろう。

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[未来の窓45]

書物文化の保存

 前回、「業界の縮小という選択は可能か?」というタイトルでいささかペシミスティックな一文を書いてしまったが、その後ある雑誌の座談会に呼ばれて話す機会があって、そのときのオフレコの雑談からこの一文で書いたことがあらためて現実的であることがわかった。そこにはある大手出版社に勤務しているひとがいて、そのひとによれば創刊雑誌の売れゆきはひどいもので、これからは売れるものはなにもでてこないだろうとの観測が述べられていた。ネット社会というあらたなインフラが構築され、たとえばeコマースというような、実態はこれまでの通販でしかないものにそれらしき名前を付していかにも新しい商売であるかのような体裁をつくろっているものに、はたしてどれだけ将来性があるかというような議論も出た。ここでわたしも図に乗って「二十一世紀のいずれかの時点で出版という形式は消滅せざるをえないだろう」といったことを口にしてしまった。これは出版の業界誌ではないので出版人としての公式発言ではないが、かならずしも不用意な発言だったとはいまでも思っていない。文学系出版物がとみに売れなくなっている現状のなかで、これからの文学者は有名であれ無名であれ、これまでのような出版を前提にみずからの活動を想定していくことはむずかしくなっていくだろうという文脈のなかでの発言だからである。

 すでにいろいろ報道されているように、スティーヴン・キングが新作をネット上で発表し、それを章ごとに読者に直接購読してもらうという実験的手法でおおきな成功をおさめているらしい。出版社を通して購読してもらうよりもはるかに利益があがるということである。まるごと収入になるのだから印税(ふつうは一〇パーセント)の何倍かの一冊あたり収益となる、いくら読者が減ったとしても、かれほどの人気作家ならば読者も十分だという計算なのだろう。読者からしてみても、書物になるまえのできたての原稿を読めるのだし、有名作家とも直接つながっている関係を享受できるという幻想もまんざらではないだろう。アメリカという高度に発達したネット社会、書店も近傍にかならずしも存在しない広域社会、しかもこれだけ話題性に富む出来事ともなれば、こうした現象はすこしも誇張ではない。もっともこうした現象が日本でも起こるとはとうてい思えないが。

 ともあれ、こうしたいくつかの問題からわれわれ出版業界もまた当面の打開策を講じていかねばならない。

 そのひとつのありかたはグーテンベルク以来のこれまでの書物の歴史をさまざまな方法でデータ化していくことである。高宮利行『グーテンベルクの謎──活字メディアの誕生とその後』(岩波書店)によれば、『グーテンベルク聖書』をはじめとする稀覯書のデジタル化はいまや着実に世界中で実現されつつあり、インターネットをつうじてのそうしたデジタル図書館へのアクセスは今後ますます活発化するであろうとのことである。これによって世界中の稀覯書の閲覧が居ながらにして可能になる。《グーテンベルクによって西欧にもたらされた印刷メディアは、二十世紀後半にマルチメディアに取って代わられた。しかし、この「第二グーテンベルク革命」は、再びグーテンベルク時代の印刷文化やそれ以前の写本文化にメスを入れる機会を与えている》と高宮氏は前掲書で書かれている。こうした努力によって書物の比較研究、年代研究といった学術研究が可能になるばかりでなく、同じ方法論を拡大していくことによってより一般的な書物、あるいは特定の場所にしか保存されていない貴重な資料へのアクセスが容易になっていくことにつながるだろう。スキャン方式によるオンデマンド出版の可能性もそのかぎりではおおいに意味があることになる。

 さて、しかし出版がなにも過去のほうにばかり向いているのではないことは言うまでもない。高宮氏の本では十分触れられていないようだが、二十世紀末の「第二グーテンベルク革命」は印刷文化そのものを過去に追いやってしまう危険性でもあるのだ。印刷文化とは著者と読者のあいだに印刷・製本技術を介在させてこそ成立するものである。さきに例を挙げたスティーヴン・キングの手法にも見られるように、読者がインターネットをつうじて著者のウェブサイトからダウンロードしたものを私的にプリントアウトして綴じたとしても、それをもはや印刷文化とは言えないだろう。印刷文化とはいちど著者の手を離れ第三者たる編集者の目が通ったものが印刷・製本業者の技術を介在させて読者に手渡されることによって実現している新規に産出される文化なのである。

 そうだとすると、ここで問われなければならないのは、〈編集〉という作業のもつ今日的意味ということになる。もちろん、従来からなされてきた著者と編集者によるコラボレーションという機能によってすぐれた本が生まれるという基本的な構造は変わってはならない。編集者は著者の原稿を書物の形態に変換するだけの技術者であってはならないのであって、著者の仕事をサポートし、編集の経験をつうじて著者の可能性を最大限に引き出す役目を負っている。むしろこの機能がより強固に発揮されることを通じてしか、著者が編集者にみずからの原稿を託すという意味はないと言っていいほどなのである。しかし、今日的な編集者の役割はそれにとどまってはいられない。なぜなら、急速に読者を失なっていくネット社会の出版のなかで、著者のもっとも身近にいる者としての編集者は、場合によっては著者に代わって著者の過去の仕事(業績)を保存し維持していかなければならないかもしれないからである。簡単に言えば、書物のデータをなんらかのかたちで保存し、必要に応じて再利用できるかたちを整えておかなければならない。これまで印刷所まかせだった書物の保存形式、つまり紙型やフィルムといった物質ではなく、デジタルデータとして正確なデータを保存することが編集者の重要な仕事のひとつになっていくのではないだろうか。わたしなどはことあるごとに、書物になった原稿の最終データをみずから保存しておくことを著者に勧めているが、こういったことはどの著者にでもできるわけではない。データ方式のオンデマンド出版の可能性がすくなくとも残されている以上、出版という紙媒体の形式は弱体化しても、文化はかろうじてそこで保存されることになるからである。

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