2019年アーカイブ

(間奏曲)

<G>偏執的編集者</G><S1>(以下、略して偏集者)</S1> 前回はまたまた「番外篇」を書くことになって、この〈偏執的編集論〉も間があいてしまって何を書くことにしていたのだか、わからなくなってしまいがちなんだけど、Kさんもだいぶ未來社方式に慣れてきてくれたので、いろいろご意見をいただけると思っているんですよ。
<G>Kさん</G> 出版の仕事のお手伝いはとても楽しいです。本ができるまでの途中のプロセスがいろいろあるんだな、ってこれまでよく知らなかったことが見えるようになってきました。この〈偏執的編集論〉も編集者が何にこだわっているのかがわかってきて、内側から見ているとおもしろいんですが、ちょっとむずかしいところもあります。テキストエディタというのも一般的ではないんでしょうが、編集のプロはこういうものを使わないといけないんだな、と思わされます。
<G>偏集者</G> だからね、何度も言うけど、テキストをエディット(編集)するからテキストエディタというわけだけど、わたしの知っている編集者でも「原稿はワードでください」なんていまだに言ってる始末だから、編集のプロというのは、すくなくとも技術レベルではきわめて少数にすぎないんだよ。ほんとうはとてもおもしろい世界で、最近うちで働いてくれているT君はマック派だけど、最近はやむをえずウィンドウズで仕事をしているうちに、わたしの秀丸マクロなんかに関心をもってくれて、いろいろ説明するとますますおもしろがっているよ。おかげでこちらもひさびさにMacBook Airというのを買い込んで、大谷翔平じゃないけど二刀流復活だあ、と叫んでいるわけだ。かつてSED(セド)というコマンドツールを覚えるところからいまのテキスト技法に入ったわけで、最近またSEDの再開発に取り組もうとしているんだ。あっ、こんなことKさんに話しても困るかな。
<G>Kさん</G> わたしもそのうち勉強したいと思います<S1>(笑い)</S1>。いまはさしあたりすぐにも三ページ分の原稿が必要なので、ヨタ話はそれぐらいにしてもらって、前々回の「8 表記の間違いと不統一を正す1」のつづきを書いていただけますか。
<G>偏集者</G> そうだったね。ところで1があるからには2以降があるはずだから、たぶんこんなことを書こうと思っていただろうことを書いておきましょう。


9 表記の間違いと不統一を正す2

 さて、わたしのこの連載は原則的にパソコンを使ったテキスト編集の技法を具体的に論じるものであり、わたしが日常的にいちばん使っている秀丸というテキストエディタで独自に作成した秀丸マクロに準じて説明している。これは長年にわたって実際の編集実務をつうじて、その効率化と正確性を基準に鍛え込んできたもので、それも日々こまかいバグ修正をおこなっているから、その精度には自信がある。未來社ホームページの「アーカイブ」ページ上で公開してもいるので、興味のあるかたは利用してほしい。(と言っても、かなりの人たちがダウンロードしてくれているから使ってくれている人もいるのだろう。ただしネット上の更新を怠っているので、最新ではないが。)
 そういうわけで、今回の項目ではあといくつか取り上げておくだけにしよう。

 ひとつは、日本語表記、それも縦組みの本のなかで、欧文仕様と思われる「上記」「下記」「上述」「上掲」などの記述がよく見られることである。欧文は文の流れが上から下へだからこれでいいのだが、日本語のように右から左へ文章が流れることばでは、この上下表記は原理的におかしい。こういう表記はコンピュータ以前からもあって、古い岩波文庫の翻訳などでもよく見られる。原文を読んでいるうちにこういう上下感覚が訳者の身についたのかもしれないが、いすれにせよ、元が上下の流れの文章であっても日本語にして、しかも縦組みの本の形式に文字を配列する以上は、この上下関係を前後関係に変換しなければいけない。これもふくめて翻訳なのではなかろうか。というわけでこれらを「前記」「前述」「前掲」「後記」「後述」「後掲」などと変換しなければならない。単純置換するなら検索で「上記」、置換で「前記」等々にすればよい。それがいちいち面倒ならば、たとえば秀丸マクロではこうなる。
 replaceallfast "上\\f[記掲述]\\f","前★\\1",inselect,regular;
 簡単に説明しておくと、「上」という文字のうしろに「記」「掲」「述」のどれかひとつの文字がきたら、「上」を「前」に変換し、そのうしろに該当する文字を代入するということである。「★」は変換した痕跡を確認するためにあるだけなので、間違いがなければ削除すればいい。秀丸の検索と置換のボックスでこれを処理するならば、「正規表現」のチェックボックスにチェックを入れたうえで、検索で「上\f[記掲述]\f」、置換で「前★\1」とすればよい。別のエディタでこれをおこなうときはそれぞれ「上\([記掲述]\)」で検索し、「前★\1」で置換する。こちらのほうが一般的である。秀丸ではタグ付き正規表現を「\f......\f」(マクロでは「\\f......\\f」)で指定するが、本来の正規表現は「\(......\)」だからである。なお、Wordなどの初心者~中級者向けワープロは脚注やルビなどむだなローカル機能を搭載しているくせにこういう基本的な機能を組み込んでいないので、正規表現を駆使した検索・置換はできない。
 また、必ずしも間違いではないが、小説や映画などで「長編」「短編」といった類いの表記もできれば「長篇」「短篇」というふうに表記したい。前者だとどうも感じがしっくりこないのである。その場合の秀丸マクロの表記は次のようになる。
 replaceallfast "\\f[長短全前後続詩]\\f編","\\1篇★",inselect,regular;
 つまり「全編」も「前編」「後編」「続編」「詩編」もすべて「全篇」「前篇」「後篇」「続篇」「詩篇」と変換するという仕掛けである。

 つぎにこんな修正はどうだろうか。
 よく見かけるが、年齢を示す「歳」に「才」を使っている例がときに見られる。直筆などの場合には字画数の問題で「才」で省略するクセが反映したものかもしれない。手書き時代のなごりだろう。いまどきの活字表現では適切ではないので、数字のうしろにある「才」は「歳」に変換しよう。その場合の秀丸マクロの表記は次のようになる。
 replaceallfast "\\f[01234567890123456789〇一二三四五六七八九十何]\\f才","\\1歳★",inselect,regular;
 これを単純置換するなら検索で「\f[01234567890123456789〇一二三四五六七八九十何]\f才」、置換で「\1歳★」とするのは、前述したとおりである。

 もうひとつ紹介しておくと、固有名詞を正字に置換するほうがよいという問題である。たとえばほんの一例であるが、「未来社」「文芸春秋」「丸山真男」「福沢諭吉」「柳田国男」をマクロを使ってそれぞれ「未來社」「文藝春秋」「丸山眞男」「福澤諭吉」「柳田國男」に一括変換すると、不統一をなくすことができる。こうした作業はテキスト通読作業に入るまえにあらかじめすませておくとむだな神経を使わなくてすむ。それぞれの本ごとに、必要な変換候補を追加しておけば、作業は楽になるはずである。秀丸マクロとはこうしたひとつひとつの変換セットをひとつの束にまとめたコマンド集のことである。
 最後にもうひとつだけ。文章中に「?」や「!」が入ることがある。句点の代わりにこれらの記号が用いられているような場合もあるので、そのときにはうしろに全角スペースをひとつ挿入するほうがいい。その場合の秀丸マクロは以下のようになる。
 replaceallfast "\\f[?!]\\f[^\n「」『』〈)《》(〉[]〔〕【】{}""'']\\f","\\1 \\2",inselect,regular;
 簡単に説明しておくと、「?」か「!」のうしろにカッコ類や改行コード(\n)以外の文字がくる場合に全角スペースを挿入するというコマンドである。うしろにくる文字によってはスペースは不要だからである。

 今回はページの余白も少なくつぎの論題に進む余裕はないので、ある読者からのメールでのご意見について回答しておきたい。
 というのは、つい先日、社あてにいただいたメールにこんな文章があったからだ。《貴社発行の標記著作集(加藤尚武著作集のこと)はヘーゲルを理解するうえで、とても有益であり、気になるテーマを中心に拝読しております。/特に単行本未収録論文には優れたものが多く、新たな発見に感動すら覚えます。/しかしながらこの著作集には誤字が多く、校閲の体制に問題があるのではないかと思われます。/漢字変換の間違いのみならず、言葉になっていない箇所もあり、他の本と比べてあまりに誤字の数の多さに驚きます。/まだこれからも発行が予定されているシリーズですので、校閲の基本動作を確実にお願いしたく思います。》と。
 とても貴重なご意見にはちがいないが、この連載をお読みいただいている方にはご理解いただけると思うのは、この指摘が事実ならわたしの方法論にとって原則的にあってはならないはずのことであり、わたしの編集論にとっても沽券にかかわることだからである。
 とは言ってもこの著作集は隔月刊で四五〇~五〇〇ページの大部なものであり、誤植がないと強弁するつもりはないし、すでに確認できている箇所もある。しかし、このようなお叱りを受けるほどの校閲のずさんさはありえない。具体的な指摘がいっさいないのも気になるところであり、こういうことを言ってくるからには相当な根拠がなければならないはずなので、もしこの文章を読まれることがあったら、ぜひご一報いただきたい。確認したところでは「季刊 未来」の定期購読者ではないので、本連載も読まれたことも、ましてやわたしの[出版のためのテキスト実践技法]などもご存じないのかもしれない。もしくは前回の文章を読まれて、なにを小癪な、とでも思われてこういうメールを送ってこられたのかもしれない。それとも出版とか編集にかんしてなにか含むところがあるのかもしれない。とにかく具体的な指摘がないので、反省のしようもないし、説明することもできないのである。
 以下は可能性として、この方が一見して誤植ではないかと思われたかもしれない編集上のポイントを挙げておきたい。これはわたしの原則であって一般化はできないが、一貫性をもって実践しているので、これを誤植だと言われては困るからである。(もっとも加藤尚武著作集にかんしては、巻数を重ねるにしたがって方針にすこしずつ変化が生じていることもあって、一貫していないところもあるのはやむをえない事実だが、すくなくとも一冊のなかでブレはないはずである。
 ここで挙げておこうと思うのは、一見すると(表面的には)不統一すなわち誤植、誤字、不徹底と思われかねない例である。
 まずその第一は、注などでページ数を書き出すときに「ページ」とするか「頁」とするかであるが、わたしの場合は翻訳にかんしては「ページ」で、日本語が原文の場合は「頁」と表記するようにしている。著作集などの場合、もともとの原稿が統一されていないのはあたりまえなので、原則的にこの方法で統一している。注の表記が並ぶ場合に、見るからに不統一感が出ることがあるのは確かだが、それはやむをえない。また、この原則が明示されていないために不統一感が解消されないのも具合が悪いが、とにかくそういう原則で処理しているのである。
 つぎに複合動詞とその名詞形の場合に送りがなをどう処理するか、という問題がある。たとえば「組み合わせる」「打ち合わせる」の名詞形は「組合せ」「打合せ」と送りがなを省略するのを原則としている。名詞形の場合に「全部送る」方針をとると冗長感が残るのがいやだからだ。ちなみに「組み合せ」「打ち合せ」という表記などはどちらにしても間違いということになる。「取り扱う」なども名詞形は「取扱い」が妥当だが、複合名詞になると「取扱注意」などとさらなる省略がなされたほうがいい場合もあるから、問題はそう単純ではない。すくなくともわたしはそうした細かい配慮と問題意識をもって対応しているので、そのわたしが校閲をおろそかにすると言われる筋合いはない。
 さらには「持つ」「行く」などの拡張性をともなう頻度の高い動詞の場合、一次的な意味の場合は漢字を使い、それ以外の二次的(拡張的)使用の場合はひらがなに開くという大原則があることも言い添えておいたほうがいいかもしれない。「手荷物を持つ」「山へ行く」ことはあっても、「意味をもつ」「仕事を進めていく」のが原則であるということである。
 最後にもうひとつ。カギカッコ付き引用などで、閉じカッコの前に句点を入れるか、外に追い出すかという問題もある。これは始まりのカッコがひとつの文中で始まるときは外に、独立した一文となる場合には前に、という原則で処理している。これも一見、不統一に見えるが、内容的には一貫しているのである。
 以上、わたしの方法論と問題意識が徹底していることを理解していただければさいわいである。なお、ご興味のある方は未來社ホームページの「編集用日本語表記統一基準」(http://www.miraisha.co.jp/mirai/archive/touitsu.html)をごらんください。

(間奏曲)

偏執的編集者(以下、略して偏集者) すでにおなじみらしいF君に代わってこれからはKさんがうちの担当になってくれるんですね。哲学科出身だからテツジョですね。もっともこれじゃ「鉄女」と誤解されそうだから「哲女」としましょうか。デリダとかアーレントに関心があって、うちの担当を希望するとはなかなかすごいね。
Kさん その話はちょっと困るので......。
偏集者 じゃあ、Kさんと呼ぶけど。ご存じのように、ちょうどこちらも隣のお寺の借地権がもうすこしで切れるので、これを機会に六二年間も社業を営んできたこの小石川の土地を去って、世田谷に引っ込もうとしているわけで、とんでもないときに担当になってしまったかな。
Kさん 別にそんなことはないと思いますけど。いろいろ知りたいことがありますので。
偏集者 それは感心感心。いまの若いひとは本も読まずに自分で考えることもしないからね。ちょうど見終わったばかりのテレビドラマで「3年A組――今から皆さんは、人質です」っていうのが評判だったけど、最後に主役の菅田将暉先生がSNSの暴力性無責任性について大演説をして終わったように、いまは本を読まずにSNSだけにかまけて自分の無知をさらけだして恥じない若者が増えている。
Kさん わたしも見てました。深く考えさせる内容でしたが、最後はちょっと肩すかしを食いました。
偏集者 まあ、そうだけど、われわれのように本を作ったり本を書いたりしているのも、今回の引越しで痛感させられたけど、本もものによっては相当なゴミになってしまう場合があって、出版社の人間が言うべきことではないけど、われわれはゴミ本を作らないようにしなければいけないということにいまさら気がついたわけだ。SNSだけが悪いわけじゃない。というわけで、前回のつづきを書きましょう。


8 表記の間違いと不統一を正す1

 著者の原稿を金科玉条のごとく拝跪する編集者はけっこう多い。一九九九年だったか、「本の国体」と呼ばれた出版界あげての大会が鳥取県の大山であって、そこの編集部会の第一分科会に呼ばれて公開の討論会を朝から夕方まで四人でやったことがある(司会は津野海太郎氏)。その大部な記録も残っているけど、そこで驚いたことがある。いまはなくなった地方の出版社の社長がわたしの発言にたいして「編集者ごときが著者の原稿に意見を言うのはおこがましいんじゃないか」と発言したので、もちろんその場で反論はしたが、こういう前代の編集者がいるんだと思ってほんとうにびっくりさせられた。いまではこんなことを言うひとはいないかもしれないけれど、実際には著者の原稿の間違いや表記の不統一、その他にたいしてノーチェックの本が専門書の場合でもかなりある。こういうことは他社の本を取り込んだ著作集などを編集していると、こんな誤植や勘違いが本で許されるのか、とほんとうに驚くことが多いのが現実である。それも有力出版社だからなおさらである。本に誤植はつきもの、とは言うものの、最初からそうした言い訳を前提に編集しているらしき編集者がいるのは困ったものである。
 今回はそうした事例のいくつかを紹介しておかなければならない。
 まずは単純な誤植、勘違い、うっかりミスの類いを指摘しておこう。
 たとえば「コミュニケーションcommunication」を「コミニュケーション」とするような場合である。一見すると見落としがちだが、原語が頭に入っていれば、こうしたミスには気がつくはずである。しかし、似てはいるが、次のようなケースはたんなるうっかりミスではすまされない、著者の知的水準を疑いたくなるケースである。つまり「シミュレーション、シミュラシオンsimulation(模擬)」「シミュラークルsimulacre(模造品)」を「シュミレーション」「シュミラークル」とするようなケースがとても多いことである。趣味じゃないっつーの、と言いたくなる。これをコンスタントに間違うひとは原語を知らずに人真似をするからこういう赤っ恥をかくことになる。巻き添えにされた編集者も同罪である。わたしはこういうひとを信用しない。こういうことに気づかないひと(編集者)のために秀丸マクロのコマンドを紹介しておこう。
 //コミニュケーション→コミュニケーション
        replaceallfast "コミニュケーション","コミュニケーション",inselect,regular;
 //シュミレーション(シュミラークル)→シミュレーション(シミュラークル)
        replaceallfast "シュミレーション","シミュレーション",inselect,regular;
        replaceallfast "シュミラークル","シミュラークル",inselect,regular;
 もっと頻度の高いものがあって、これなどはきわめて多いし、変換ミスなどが原因で注意が必要になる。以下にたわむれにサンプルを作ってみよう。
「こうした間違いは以外(→意外)に多く、終止(→終始)気を遣って、問題がどれに符号(→符合)するかを見究めよう。」
「分化(→文化)に内臓(→内蔵)された問題の構築の対照(→対象)が何であれ、ひとはそこから開放(→解放)され自律(→自立)しなければならない。」
「首相は森友問題で厳しく追求(→追及)される必要があり、始めて(→初めて)訴追を受けるであろう。」
といった具合である。
 ひとつエピソードを思い出した。丸山眞男『現代政治の思想と行動』の活字が古くなって増刷がこれ以上できなくなり、電子データで新組をしたときのこと。このさいあらためて通読していくつか誤植を見つけて修正したが、「初めて」という意味のところですべて「始めて」になっていることを発見し、そのことを校正を担当したM先生に確認したところ、判断に困った先生は間違いかもしれないけれど、このままにしてくれ、ということになってそのままにしたことがある。しかし、その後すこし古い本を注意して読むと、戦後しばらくまではすべてファーストタイムの意味の「初めて」は使われておらず、「始めて」が使われていることに気がついた。どうやら「初めて」という表記は比較的最近のものらしいのである。厳密なM先生もそのことを知らなかったらしい。そういう意味で表記も時代とともに移り変わりがあるので、編集者はそういうことにも気を配る必要がある。
 もうひとつ、最近のパソコンの日本語変換装置(以前はこれをフェップFEPと呼んだが、いまもそう呼ぶのか)の作り方が日本語のちゃんとわかっていないひとが参加しているせいか、おかしな変換が多くなって困ることが多い。その一例だが「出入口」の「入口」を「入り口」としている例が多くなった。これは「いりぐち」と読ませるべきところを「はいりぐち」と読ませるのと同じであり、たいへん気持ち悪い。
 また、最近の安っぽい口語表現のひとつで「ある意味で」というべきところを「ある意味、」とする表記がまかり通っている。アホなタレントが言うのならまだしも、ちゃんとして学者や研究者がそう言うのを聞くと、ゾッとする。例の「ら抜き」ことば(食べれる、見れる、など)と同じぐらいに大嫌いな言い回しである。
 ついでにもうひとつあげれば、「~としてみなす」という表記がよく見られるが、これは「みなす」ということばのなかに「~としてみる」という意味がふくまれており、英語で言えば「regard as」と同じであるからには重複表現ということになる。「として」は不要である。同様のものに「~にしかすぎない」というのも「すぎない」は「~でしかない」という意味をふくむので、重複表現である。
 こうした表記に著者も編集者ももうすこし敏感であってほしい。それでも見逃してしまうひとのために秀丸マクロを以下に紹介しておく。
//として見なす(見る)→と見なす(見る)
        replaceallfast "として\\f[見み]\\f[たてならるれよ]\\f","と\\1\\2★",inselect,regular;
//漢字変換ミスを確認する
        replaceallfast "\\f[以意]\\f外","\\1★外",inselect,regular;
        replaceallfast "終\\f[止始]\\f","終\\1★",inselect,regular;
        replaceallfast "対\\f[象照称]\\f","対\\1★",inselect,regular;
        replaceallfast "内\\f[臓蔵]\\f","内\\1★",inselect,regular;
        replaceallfast "符\\f[合号]\\f","符\\1★",inselect,regular;
        replaceallfast "\\f[文分]\\f化","\\1★化",inselect,regular;
        replaceallfast "\\f[開解]\\f放","\\1★放",inselect,regular;
        replaceallfast "自\\f[立律]\\f","自\\1★",inselect,regular;
        replaceallfast "\\f[探追]\\f[求究及]\\f","\\1\\2★",inselect,regular;
        replaceallfast "\\f[初始]\\fめて","\\1★めて",inselect,regular;
        replaceallfast "入り口","入★口",inselect,regular;
//好ましくない表記
        replaceallfast "\\f[或あ]\\fる意味","\\1る意味で★",inselect,regular;
ここで★が入っているのは、一括変換のあとの再確認のためである。最初にこうしたフィルターをかけてしまうことを前提にしているからである。(なお、ここで注記しておくと、WEB上では半角円マークがバックスラッシュ(\)になってしまうので、実際のコマンドとしてはこのバックスラッシュを半角円マークに変換してほしい。)
 さきほど「コミニュケーション」のうっかりミスと、「シュミレーション」「シュミラークル」の許されないミスを取り上げたが、その例で言ってもっとひどいのはわたしの見聞したかぎりでほんとうにこのひとたちに著述をする資格があるのかを疑わせる種類のものがあった。
 ひとつはクロード・レヴィ=ストロースを「ストロース」「ストロース」と連呼する著者がいて、ストローじゃあるまいし、最初は誰のことを言っているのか首をかしげることがあった。フランス人の場合はしばしばこういうことがある。ジャン=ポール・サルトルの場合は「サルトル」で間違いないが、これはちゃんとレヴィ=ストロースと言わなければならないのである。もっとひどいのは「リラダン全集」で通ってしまっているオーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダン伯爵は、「ヴィリエ・ド・リラダン」が姓であって、リラダンではない。ちなみに正式の名前はジャン=マリ=マティアス=フィリップ=オーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダンというのだから始末に負えないが。
 さてもうひとりの雄はモーリス・メルロ=ポンティのことを「ポンティ」「ポンティ」と連呼する著者である。このひとの場合は現象学についての本まで出している「専門家」だからよけいたちが悪い。一般にはメルポンと略称されることもあるが、「ポンティ」はいくらなんでもないだろう。おそらくフランス語をまったく知らないのだろうが、こういうひとがデリダ批判を手前勝手にやって新書を書いているのかと思うと、日本の出版業界も情けない。「ストロース」さんも「ポンティ」さんもいちおう名の知れた著者だが、わたしにはまったく読めない。読んだことがあるが、あまりの無内容にのけぞったことがあるぐらいで、このひとたちの名誉(というものがあれば、の話だが)のために名前は言わないでおこう。