II-20 大いなる裏切り――辺野古埋立て承認取消しの取消し

| トラックバック(0)
「高江のヘリパッド基地工事の強行に見られるように、二〇一六年七月の参院選後の安倍改造内閣の強権が沖縄においてとみに顕著になっている状況がある。その権力意思の源流がこの裁判の法廷の中にまで流出していたと考えられる」と仲宗根勇さんは「越境広場」3号で書いている(「辺野古=高江・我が闘争――裁判抗争にあらがい、闘いの現場に立つ」)。「この裁判」とは、昨年七月二十二日に国土交通大臣が、翁長知事の辺野古埋立て承認の取消しに対する国の是正指示に応じないのは違法だとして翁長知事を相手とする「違法確認訴訟」を福岡高裁那覇支部に提訴した裁判を指す。昨年三月四日に成立した国と沖縄県との形式的な和解条項をたてに、国家権力が自分の意のままにならない怒りと焦りから沖縄県知事を訴えた訴訟であって、そもそも和解条項とは無縁な訴訟であるにもかかわらず、和解条項の手続き上の問題を利用するかたちで権力的に沖縄県知事をねじ伏せようとした見え透いた策略である。しかしすでにこの訴訟のために政府にべったりの裁判官を一か月前に那覇支部に赴任させたうえで、超短期間であたかも既定の事実であるかのごとく、「県が国の是正指示に従わないのは違法であることを確認する」という判決主文でもって、沖縄県の辺野古・高江の闘いとそれを支持する翁長知事の埋立て承認取消しを違法とする、というまことに政治的な裁判であった。この権力によって送り込まれた多見谷寿郎という裁判長は、成田空港建設をめぐる裁判のさいにも証拠調べもろくにせず、国の権力意思をそのままに判決を下すという札付きの権力代弁人にすぎない裁判官で、上ばかり見ている「ヒラメ裁判官」(仲宗根勇)の典型である。
 沖縄の圧倒的な民意を無視するこうした安倍強権政治は、アメリカの最悪の大統領にも世界じゅうの顰蹙を買いながら誰よりも先に尻尾を振りにアメリカに出向き、内向きには沖縄に対してこれまでのどんな首相もしてこれなかった権力意識丸出しの暴力的圧力をかけ、その挙げ句に「家庭内野党」などと欺瞞と嘘っぱちで固まった昭恵【あきえ】夫人が悪乗りしたあげくシッポを出した森友学園問題で、みずからの私欲のためにいかに国民を欺いているかを暴露されているしまつである。野党議員から「アッキード事件」と揶揄され、血相を変えてもし事実なら首相を辞職するとタンカを切ってみせた。日本支配を裏で企む日本会議からも迷惑だと言われている森友学園とやらは、児童に長州藩の天下乗っ取りの芝居までさせているという。この長州藩覇権主義の亡霊、これほど無知で薄汚い男を冠に乗せている国がいったいどこにあるのか。いや、金正恩とトランプがいるから、いまや唯一とは言えないが、同類かそれ以下であろう。――こんな正当なことを書くと、第一次安倍政権のさいに、こんな男は一年ももたないだろうと予測した文章を発表したら、そんなことを書くおまえこそ日本から出て行け、という匿名の恫喝のハガキ(「未来」の挟み込みハガキで)を頂戴したことがあるから、今回も期待したい。実際、わたしの予想したとおり、「心身耗弱」とかいう深刻なビョーキでみずから退陣したが、現首相にはそのビョーキがますます昂進しているのじゃないか。精神科医の大井玄氏はトランプのことを「嘘つきで、人種差別を行ない、強者の論理を弱者に押しつけるガキ大将的精神年齢の持ち主である」と適切に指摘している(「みすず」3月号)が、そのまま安倍首相にも言えるのがこわいところだ。
 さて、そんな緊迫した沖縄の政治情勢のなかで、仲宗根勇・仲里効編『沖縄思想のラディックス』という論集が緊急出版される。これは本誌でリレー連載《オキナワをめぐる思想のラディックスを問う》というかたちで都合六人の筆者(編者のほかに八重洋一郎、桃原一彦、宮平真弥、川満信一の諸氏)に、現代沖縄の政治的・歴史的・文化的諸問題を思想的に深めるかたちで論じてもらうという意図のもとで二年ほどのあいだに書かれた論考を元に集めたものだが、これにくわえて最新の政治情勢や思想問題をふくめて両編者に「総括的まえがき」(仲宗根)と「展望的あとがき」(仲里)を書き下ろしてもらった。このアイデアとネーミングはわたしが発案したものだが、それに呼応して書かれたそれぞれの文章は、深く沖縄の思想の根底(ラディックス)に届いていると思う。
 とりわけ巻頭におかれた仲宗根さんの「総括的まえがき」は、昨年十二月二十六日に発覚した翁長県知事の、前知事による辺野古埋立て承認の取消し処分のさらなる取消しという、沖縄県民の期待を大きく裏切り、その後の辺野古の新基地建設工事再開に道を開いてしまう決定的な錯誤につながる行為を、専門の法律の知識を動員して徹底的に批判している。権力の茶番である「違法確認訴訟」前後の経過から知事による辺野古埋立て承認の取消しの取消しという歴史的な策動までの本質を的確に暴き出しているという意味で本書の白眉であると言っても過言ではない。とりかえしのつかない政治的錯誤のあとの、それでも闘いを継続していかなければならない沖縄のひとたち、それを支持するひとたちとその闘いの方法論たるラディカルな思考の歩みはとどまるところを知ることはないからである。
 本書はその意味でこれからの沖縄の思想が向かうべきところを多様なかたちで示唆しているはずである。わたしがこれまでその思想のアクチュアリティの面で力を入れてきたポイエーシス叢書に本書を加えることにしたのも、心ある思想系の読者たちに沖縄の問題のリアリティとアクチュアリティをもっと知ってほしいからでもあった。
 そして本書をめぐってこの四月十五日に那覇の県立博物館講座室で両編者による(おそらく)熾烈な講演と対談がおこなわれる予定であることをお知らせしておきたい。

 *この文章は「未来」2017年春号に連載「出版文化再生28」としても掲載の予定です。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.miraisha.co.jp/mt/mt-tb.cgi/558

未来の窓 1997-2011

最近のブログ記事 購読する このブログを購読