II-11 ついに出た「県外移設」ヤマト受け入れ論――高橋哲哉『沖縄の米軍基地』を読む

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 高橋哲哉さんからは沖縄米軍基地論の刊行予定を以前から聞いていたが、このほど集英社新書の一冊として刊行された『沖縄の米軍基地――「県外移設」を考える』が送られてきた。すでに相当な話題書になっていることはアマゾンのランキングやいくつかの評価の分かれるカスタマーレビューを見ていてもわかる。もちろんさっそくにもこの本を読ませてもらったが、すでに刊行されていた岡野八代さんとの対談『憲法のポリティカ――哲学者と政治学者の対話』(白澤社)もあわせて読ませてもらったので、いちど整理しておきたいと思っていたところ、ウェブで高橋さんを中心に大阪府民が結成した市民団体「沖縄差別を解消するために沖縄の米軍基地を大阪に引き取る行動」主催の「辺野古で良いのか――もう一つの解決策」講演会のニュースを見つけた。七月十二日に大阪市で開かれたもので高橋さんは講演で「日米安保条約をただちに廃棄できないなら、その間は本土に在沖基地を引き取るべきだ」と本と同じ主張を展開したということだ。
 七月十五日にはすでに報道されているとおり、衆院平和安全法制特別委員会での与党だけによる安全保障関連法案の強行採決がおこなわれた。安倍晋三という超右翼ナショナリストによる戦争国家化への野望が「切れ目のない」反動化政策によって日本はアメリカに追随するだけの、世界からの孤立化への道を邁進している。祖父のA級戦犯、岸信介の野望をここへきて実現しようとする長州藩的DNAの覇権主義がとどまるところを知らない。ヒトラー顔負けの野望に充ちたこの下劣漢は、それに同調するしか能のない取り巻き連中を従えて、なんでも自分の思い通りにできると勘違いしている。民主主義など眼中にないこの男からすれば、沖縄米軍基地などハナから撤廃する気などないし、なにがなんでも辺野古への移設を強行しようとしている。理屈の通らない妄想家を政治の表舞台に押し上げている盲目のどうしようもない日本人たちがはたして今回の暴挙を暴挙として認識することができるかどうか、はなはだ疑わしい。かつて岸を辞任に追い込んだように、なんとかこの妄想家を引きずりおろすしか、これからの日本を救う手立てはないだろう。
 と、少々脱線したが、高橋哲哉はヤマトゥンチュとして初めて正式に沖縄米軍基地のヤマト受け入れの必要性を明示した。
《「本土」の八割という圧倒的多数の国民が日米安保条約を支持し、今後も維持したいと望んでいる。日本に米軍基地は必要だと考えている。そうだとすれば、米軍基地を置くことに伴う負担やリスクは、「本土」の国民が引き受けるのが当然ではなかろうか。》(『沖縄の米軍基地――「県外移設」を考える』八九ページ)
《沖縄にある米軍基地は、本来、「本土」の責任において引き受けるべきものなのに、「本土」はその責任を果たしていない。県外移設要求は、その責任を果たすことを求めているのである。》(同、九〇ページ)
「本土」人=ヤマトゥンチュを敵にまわす覚悟の勇気ある発言だと思う。なぜなら知念ウシや野村浩也などが主張しているように、「本土」人=ヤマトゥンチュこそ「無意識の植民地主義」の体現者であり、沖縄の基地問題にたいしては知っていてもシランフーナー(知らんふり)をして問題を回避する人間たちだからだ。知念ウシ『シランフーナー(知らんふり)の暴力──知念ウシ政治発言集』(未來社、二〇一三年)にもくわしく書かれているように、どんなに沖縄好き、沖縄への「連帯」をうたうひとたちでも、ひとたび基地を「本土」=ヤマトに引き取れという話をすると、とたんに凍りついてしまうのである。あたかも自分の家の隣にでも米軍基地が引っ越してくるかのように、だ。高橋哲哉が言うように、《県外移設に関する限り、右も左も護憲派も改憲派もなく、沖縄を除く「オールジャパン」で固まっているようにしか見えないのだ。》(同前、四六ページ)これはもちろんいまの沖縄が「オール沖縄」でまとまっていることとの対比で言われている。
 この本にはみずから編集にかかわった本や論争の引用が多く、なかなか言及しにくいのだが、知念ウシさんと石田雄さんとの往復書簡はわたしが仕掛けた「論争」であり、一般的にヤマトの知識人のなかには、あれじゃ石田さんがかわいそうだ、という意見もある。たしかにヤマトの視点からみれば、人情論としてはありうるが、基地問題にかんする沖縄人の生活権の問題の側から考えると、やはり石田さんの分が悪いのは否めない。石田さんは平和主義者としての自身の論点を超えていかないのに比して、日々を生きる人間としての権利という視点からの知念ウシの正攻法は一貫しているからである。
 これともうひとつ気になる論争で高橋哲哉が論及しているものに、琉球大学教授新城郁夫の沖縄米軍基地県外移設論批判があり、わたしもあらためて「現代思想」二〇一四年十一月号の新城「『掟の門前』に座り込む人々――非暴力抵抗における『沖縄』という回路」を読んでみた。これまでにも同趣旨の批判を繰り返しているらしいが、――ウチナーンチュの内部論争にはヤマトゥンチュとしては軽々しく参加はしたくないが、――新城の論は「県外移設論」をあるべき基地闘争にたいする「人種主義的境界化を導入する流れ」だとして野村浩也や知念ウシを激しく攻撃している。高橋も言うとおり、野村や知念が言う「ウチナーンチュ(沖縄人)対ヤマトゥンチュ(日本人あるいは日本「本土」人)」という分割線は、新城の言うような単純な人種主義的分断ではなく、政治的権力的立場選択としての〈ポジショナリティ〉の対立線であり、それは人種とはちがって思想の問題として選択し直すことができるものとしてとらえられなければならない。たとえば新城はこんなふうに書いている。
《スローガン化した感のある「日本人は基地を引き取れ」「基地平等負担」等の主張が実現してしまうのは米軍基地への制度批判の抹消であり、そこでは、民族的枠組みを装う軸において国内的に配分され切り分け可能な実体的面積という形象化において、米軍基地が錯視されている。》
《日本人対沖縄人という対立は、いまや政治的暴力の根本を不問とする憎悪を生み出しているが、この憎悪によって抹消されるものこそ日本という制度への批判であり、国家暴力の源泉たる人種主義への批判である。》
 一見して明らかなように、ここには論理の飛躍がはなはだしい。〈ポジショナリティ〉という政治対立はあっても、それがすぐに人種的あるいは民族的な対立を生むわけではないし、ましてや基地問題や日本の政治制度の問題を「錯視」させるものではない。むしろその反対ではないか。そうした問題の根底を問い直す視点としても現実に基地の県外移設を実現させるべく、無知を決め込むヤマトゥンチュに問題を突きつけ、意識変革を迫ることこそが、抽象的闘争論を描くより必要なことではなかろうか。
 新城の論にはほかにも矛盾がいろいろあり、たとえば沖縄反基地闘争の現場リーダーでもある山城博治を高く評価するしかたと県外移設主張者たちを否定する論法とのあいだには断絶があってはならないはずである。ちなみに山城は昨年、未來社から刊行された川満信一・仲里効編『琉球共和社会憲法の潜勢力――群島・アジア・越境の思想』に「沖縄・再び戦場の島にさせないために――沖縄基地問題の現状とこれからの闘い」という、昨年暮れの県知事選挙における「オール沖縄」的共闘をも提唱する予見的な文章を書いているが、そのなかで県外移設論について《「米軍基地は沖縄にも要らなければ全国のどこにも要らない」、それゆえに「県外移設の要求はおかしい」という「もっともな主張」が踏み誤っているのは、政府の統治の論理に絡められている点だ。》(二〇一ページ)とはっきり書いているのである。深追いするつもりはないが、新城の論は現代思想的なタームをつらねて論点を補強してみせているが、ほとんど内容がない、反基地闘争に無用な分割線を入れるだけの批判のための批判でしかないという印象である。
 沖縄を長期にわたってアメリカに譲り渡そうとした戦後直後の「天皇メッセージ」と称される、沖縄の日本からの隔離、便利な基地押しつけ場所として沖縄を利用しようとした昭和天皇をはじめ、歴代自民党政権の長年の策謀の結果として今日の沖縄米軍基地があるという歴然とした現実をみるとき、安保廃止はもちろんのこと、八〇%以上の安保体制支持者がいるという日本「本土」=ヤマトの責任において、高橋哲哉の言うように、基地を応分に引き取るしか手はないと言うべきである。そうしてから初めて、ヤマトゥンチュは沖縄人=ウチナーンチュと対等に米軍基地撤廃すなわち安保廃棄に起ち上がる権利をもてるのである。当然、そのさきにはこうした今日の日本の、あるべき姿から遠く外れた現状を導いた責任者たちの追及も見据えていくことになるだろう。(2015/7/18)

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