II-5 時ならぬベンサイド

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 ダニエル・ベンサイドの『時ならぬマルクス――批判的冒険の偉大と悲惨(19-20世紀)』(Daniel Bensai``d: MARX L'INTEMPESTIF Grandeurs et mise`res d'une aventure critique (XIXe- XXe sie`cles) を佐々木力監訳で読みはじめているところだが、これはおもしろそうだ。さすがにデリダが当代最高のマルクス主義思想家とみなしただけのことはある。1995年刊行の大部の本だが、いまをときめくトマ・ピケティなどのデータ分析一辺倒の無思想家とはモノがちがう。いわゆるトロツキストだが、フランスでは共産党もトロツキズムとは必ずしも相容れなくはない関係を保っているらしい。この本も刊行当時かなり広く読まれたそうで、フランス共産党とも理論的共存関係にあると聞いた。
 ともあれ、まだ最初のところだが、「第一部 聖から俗へ 歴史的理性の批判家マルクス」の「第1章 歴史の新しい記述法【エクリチュール】」のなかで、ベンサイドは歴史的理性を批判的に検討している。ベンサイドによれば、マルクスは「歴史のカオスに秩序を導き入れるような一般史を廃棄」し、ヘーゲル的な「本来的歴史、反省された歴史、哲学的歴史」を再吟味する。ここはベンヤミンの「歴史の概念について」とも同調する視点をベンサイドは採用している。歴史が普遍的になるのは、現実の普遍化〔世界化〕の過程を経てはじめて生成する普遍化として歴史を考えはじめることができるとベンサイドは言うのである。
 ベンサイドによれば、マルクスは『ヘーゲル法哲学批判』への序説のなかでドイツ史の「逆説的な特異性」をつかみ、「革命はフランスでは政治的であるが、ドイツでは哲学的となる」という認識をもつにいたる。これは「経済的、政治的、哲学的な領域のヨーロッパ的規模での不均等発展を表わしている」のであり、この不均等性のもとで、先進は後進になり、後進は先進になるということである。《ドイツの政治的かつ経済的な「後進性」は、ドイツの哲学的「先進性」を規定するのにたいして、英国の経済的「先進性」はその内部に政治的かつ哲学的な「後進性」をはらんでいるのである。》(ベンサイド)だからマルクスは『ヘーゲル法哲学批判』への序説のなかでこう書いたのだ。《われわれは現代の歴史的な同時代人ではないが、その哲学的な同時代人なのである。》
 このヨーロッパ的な「不均等発展」の歴史的現実のなかで、政治経済的先進性と哲学的後進性(イギリス、フランス)とそれを逆転した政治経済的後進性と哲学的先進性(ドイツ)の対比はわかりやすい。ドイツ観念論からヘーゲル、マルクスへのドイツ哲学の先取性が18-19世紀ヨーロッパをリードしながら、どうして政治的経済的にドイツが立ち遅れていたのかを(ややドイツ的な解釈ながら)理解させてくれる。ヘーゲルが同時代のフランス革命をうらやんだ話はよく知られているが、この不均等発展のギャップの転倒性はおもしろい。
 ベンサイドのマルクス論を読むことによって、新しいマルクス解釈が期待できそうな気がする。大澤真幸が言うように、いまこそ読まれるべきなのは『資本論』なのかもしれない。(2015/4/12)

 *この文章は「西谷の本音でトーク」ブログに書いたものを転載したものです。

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