〈編集とは何か〉あるいは〈編集者とは誰か〉という問いは、通常の技術論的な位相を超えて存在論的あるいは文化論的な問いとしてとらえなおそうとすると、ひどく独善的な決定論に陥りやすい。編集者自身が自己規定すると、みずからの個人的営為にすぎないものをえてして必要以上に正当化してしまいがちである。そういう編集者を何人も知っているし、自分にもはねかえってこないともかぎらない、ややこしい問題でもある。編集者とはどうあるべきか、などとそもそも大上段に構えること自体、編集者=黒子説という世間的常識からすれば、とんだ思い上がりになりかねない。しかし、そうは言っても、編集者や出版社がいかなるポリシーももたずに、編集や出版の営為にたずさわっているということは考えられない。すくなくとも文化や芸術、学問的な仕事にかかわろうとする編集者はなんらかの規準をもつべきだし、もっているだろう。ただ通常は、こうした作業とのかかわりをことさらに言説化しないだけだ。
だから編集者の仕事について触れる場合、多くは技術論または出版関連の周辺情報的なものに終始し、その内容が深く論及されることはほとんどない。ところが、そうした編集者の仕事をその存在論的あるいは文化論的な位相にまで踏み込んで論じた本が現われた。哲学・神学研究者である深井智朗『思想としての編集者――現代ドイツ・プロテスタンティズムと出版史』(2011年、新教出版社刊)がそれである。
深井はこの本で自身の研究領域である神学研究から導かれた知見にもとづいて二十世紀前半ドイツの出版界の動きのなかに類い稀な編集者=出版人のサンプルを何人も見出している。表現主義時代のオイゲン・ディーデリヒス、左翼的運動家でもあったヴィリー・ミュンツェンベルク、廉価なポケット版シリーズを生み出したエルンスト・ローヴォルト、クリスティアン・カイザー社という名門出版社を引き継いだアルベルト・レンプといった、それぞれ個性と見識ある編集者=出版人の仕事を思想史的に位置づけながら、それらがあるべき文化や思想の推進者として重要な役割を果たしてきたことを実証する。深井は、これまでの思想史研究が著者としての思想家のテクストがどのように受けとめられてきたかという側面ばかりに目が向けられていたことに疑問を呈し、とりわけ学問的・宗教的・政治的な著作が世に広められるにあたっては編集者=出版人の理解と戦略が大きく影響したことを主張する。
《近代以後、大学やアカデミーという制度がかつてのような権威を失い、相対化され、そのような制度を超えて、大学の外での学が特別な意味を持つようになり、専門家集団としての大学人や学会員だけにではなく、広く大衆に思想の市場が拡大し、さらに市場が思想の価値を判断するようにさえなり、思想が一部の知的サークルの独占物ではなくなった時、この枠組み(「著者―読者」関係という枠組み――引用者注)は壊れ、両者の間に新たに知のプロモーターとしての編集者が登場したということはできないだろうか。彼らは自明の権威に代わって、マーケットが必要とする思想を供給するために登場した。だからこそ彼らは経営や技術としての印刷という問題を超えて、思想内容ともかかわるようになった。》(17-18頁)
そして深井は、「著者―読者」関係という枠組みを超えて「著者─編集者─読者」関係という枠組みが登場したというのである。これはドイツのプロテスタンティズムにかかわる個別事例というだけではなく、二十世紀以降の近代的出版のありかたを的確に先読みしたものであったと言える。編集者=黒子である以上に、《編集者はその思想家の最初の読者となり、そして読者との接点を生み出すのであるから、思想のテクストを社会化するという大変重要な位置にいることがわかる。思想は著者によってロゴス化されるが、現代においてはさらに編集者によって社会化されるのである。》(79-80頁)ここから深井は〈思想としての編集者〉という概念を引き出してくる。
わたしにはいささか面映ゆい命名ではあるが、編集者はみずからの思想をそれとしてではなくとも、その編集した出版物を通じてある種の傾向(=思想)として表現することは事実である。その手がける学術書、啓蒙書、文学書、芸術書等を通じて一貫しているのは、特定の政治的な立場の弁護としての無批判的な出版=編集なき出版ではない、つまり社会や体制に迎合するのではなく、これらに根本的な疑義を呈する書物の出版を心がけることである。社会や学問はつねに現状を乗りこえて発展していこうとする。そうした可能性に向かおうとする著者を支援すること、体制になんら新たな発見をもたらさない書物には見向きもしないこと、そういう意味で編集とは批判なのだ。
深井のつぎのようなことばはその意味で重要であり、とりわけ現代的な意味で示唆に富んでいる。
《社会の主流に反して書物を出し、思想を問うという場合には、その時代の社会の動向を十分に知りつつも、それにあえて反する書物を出すということであるから、そこに出版社の神学や政治的態度が自覚的に現われ出ることになる。その場合にはまさにその思想は社会の木鐸となり、問いとなり、新しい時代の言葉となる。苦しい経営状況の中で破綻がやってきたとしても、時代に対してひとつの使命を果たしたという解釈が可能となる。/しかしその破綻の原因が、出版社がその時代の政治的動向を十分に理解せずに、時代とずれてしまった自らの立場を、ドグマのように奉じ、その路線を無自覚に踏襲しただけだったとすれば、それは出版社の怠慢、そして逆説的なことであるが出版社の保守化が起こったということである。思想はラディカル、リベラルでも、出版社、編集者の態度が保守的、権威的、伝統主義的なのである。》(160-161ページ)
肝に銘ずるべきことばである。(2014/7/7)
(この文章は「未来」2014年8月号に連載「出版文化再生16」としても掲載の予定です)