現在の安倍強権政治の破壊的政治運営が日本国民を破滅の道へ連れ込もうとしていることはこれまでにも何度も言及してきたが、そうした全般的なテロル政治が科学技術や学問のありかたにまで及んできている危機的状況をあらためて教えてくれる本が刊行された。この3月に作品社から刊行された佐々木力『東京大学学問論――《学道の劣化》』がそれである。
国立大学の独立行政法人化が実施されたのは自民党小泉純一郎政権下の2004年だった。当時、国立大学教員を除いては、この独法化がほんとうは何をねらっていたのか、一般国民はおろか、直接的な利害関係の薄い私立大学教員などにおいてさえも、関心が薄かった記憶がある。国立大学教官の特権的身分の危機というふうに一般に受け止められていたフシがあって、国民的危機意識は低かった。わたし自身にも心当たりがあるのでえらそうなことは言えないが、しかしすでにこのあたりから日本の学問を担うべき大学が国家の一元管理のもとに、学問の自由と自治が奪われ始めていたのである。学問の自由が支配的な経済論理、政治論理によって底を割られ、国家の政策に従属しないか、経済的効率性にあわない科学や学問は廃棄、解体の方向に追い込まれてきたのである。いわば国策としての学問管理のもとに、それに批判的だったり反対する者は容赦なく権利を剥奪する、つまりパージされて社会的に葬られ、国策に迎合する御用学者ばかりが大学の中枢を担うという構図があらわになってきたようである。邪魔者はセクシュアル・ハラスメント、アカデミック・ハラスメント、パワー・ハラスメントといった、いきすぎた内部告発(もどき)によって大学や学界からパージしようとする風潮がいまや大学を席捲しているらしい。
こうした大学と学問の置かれた危機的状況にともなって学問の劣化がとめどなく始まったことは学術出版をめざすわれわれにとってももはや拱手傍観しているわけにはいかない、ゆゆしき事態であると言わざるをえない。このままでは日本の大学の国際評価レヴェルの低下どころか、学問や科学の崩壊、優秀な頭脳の国外流出など歯止めがかからなくなってしまうだろう。最近のSTAP細胞の発見者と言われる小保方晴子さんの例などもそのひとつではないかと思われるが、そのことはさておき、東大教養学部科学史・科学哲学科の中枢を担ってきた佐々木力の場合は、こうしたいまの流れのひとつの典型ではないかと思う。
この本は「あとがき」を書いている折原浩さんの挨拶文付きで贈られてきたもので(著者の了解も得てあると書かれている)、著者跋文のほかに第三者である折原さんの「あとがき」が12ページにわたって書かれている異例の本であり、書名の大仰さといい、みずからのセクハラ問題を論の中心のひとつに掲げている構成といい、いささかたじろがされる内容のものであったことは事実である。仄聞していた佐々木力のセクハラ問題を当人がどう釈明するのかといった下世話な関心もないわけではなかったが、どうも問題はそんなレヴェルにあるのではないらしいことが本書を読み進めていくなかでわかってきたからである。
ことのおこりは2004年に佐々木力が大学院で指導にあたっていた台湾出身留学生の女子院生のセクハラ告発から始まったらしく、それを受けた当該研究室主任や研究科同僚、さらには東大教養学部、本郷の法学部の調査委員会といった学内の査問機関でのやりとりがいろいろあって、結局、停職処分、学部講義中止処分、大学院生の指導権の剥奪といった一連の重罪処分がなされ、のちに全面復権することになるのだが、それも形式的な復権にすぎないといったじつに隠微な「事件」である。ことの子細はわからないのでこれ以上言及する権利はないが、なんとも醜悪な権力的陰謀であると思わざるをえない。わたしも知っているひとが何人も関与しているらしいので、複雑な気持ちである。
だが、問題はもっともっと複雑である。ことのおこりが独法化の始まる2004年だった、ということにあらためて注目しなければならない。佐々木によれば、独法化への移行が日程にのぼることになった2000年の夏に当時の教養学部長であったA教授(物理学専攻)が偶然遭遇した佐々木に言ったせりふがある。A教授は佐々木にこう言ったそうだ。「君はただでおかない。大学が独立行政法人になったら、上部の管理者権限が強化するので、覚悟しておくように」と(本書200ページ)。これが事実だとすれば、東大の原子力開発協力に批判的だった佐々木力を意図的にパージしようとしていた強大な学内勢力が存在していたということになる。
これが佐々木の被害妄想でないと考えられるのは、東大工学部原子力工学科(1960年設立)がどれほど日本の原子力開発に国策的に協力し、原子力産業界への人材供給源となり、一枚岩的に批判者、反対者をパージしてきたかの事実を知ればすぐにわかることである。わたしも知っている安斎育郎さん(放射線防護学専攻)はその第一期生であり、在学中から異分子扱いされ、東京電力の社員スパイがいつも安斎さんの動向をすぐ横でチェックしていたほどであるのは有名だが、1975年の設立15周年パーティのときに、当時の教授が挨拶で「安斎育郎を輩出したことだけは汚点」とわざわざ言ったという話が本書で紹介されている(225ページ)。福島第一原発事故のときの原子力委員会委員長の斑目春樹は元東大教授、「3・11」直後にテレビで「原発は安全」をしつこく繰り返したが、途中でばったり出てこなくなって名前さえ忘れてしまうほどだった関村直人といった現役教授は、東電から毎年数億円の寄付を受けていたこともすでに明らかになっている現在、こうした「御用学者」たち利権勢力につらなる東大教授が数多くいるとしてもなんの不思議もない。わたしのつきあっている東大の著者たちの多くは人文系なので、こうした利権につながることはそんなにないはずだが、理系となるとこうした産学協同(大学闘争時代の打倒対象だったなつかしい標語だ)にどっぷりはまりこんだ影の世界があるのだろう。
佐々木力は、みずから公言しているように、トロツキストであり、それでなくとも官僚や大学執行部から目をつけられやすいところへ、こうした国策科学への全面的批判者でもあったから、セクハラ疑惑にかこつけたレッドパージだった可能性はきわめて高い。大学を独立行政法人化するということはこうした異端分子を大学から排除するための方策だったことを考えると、こうしたことがますます進行している現在は、学問は「御用学者」のみの領域に成り下がっていく危険は増す一方なのかもしれない。このことを佐々木はつぎのように整理している。
《国立大学の法人化は、郵政事業の民営化とともに、新自由主義的私有化のきわめて重要な構成要素であった。現実の法人化施行の二〇〇四年度以降、大学当局=執行部の権限がきわめて大きくなり、教員の任期付雇用、解雇、処分などは、ドラスティックに非民主化されるようになった。研究者は、ごく一般的に言って、御用学者化されるにようになった。懲戒処分は、かなり恣意的に政治的になされるようになり、国立大学時代には保障されていた国家公務員としての権利は縮小され、処分に不服な者は、一回の審理だけで即刻解雇が可能となった。すなわち、不服申し立ては不可能になった。》(91ページ)
この国はいま、おそるべき頽廃にむかって崩壊していこうとしている。佐々木力のセクハラ問題と同様な権力による国策批判者への恫喝と「事件」のでっち上げは本書でもいくつか紹介されているが、どれも同じ構造をもっている。「特定秘密保護法」などにいたるまで、さまざまな排除のしくみができあがりつつあるのだ。誰もがこうした監視と排除の目にさらされている。国民はこうした国家権力とそれに癒着する勢力のテロに最大限の警戒をしなければならないのである。(2014/4/20)
(この文章は短縮して「未来」2014年6月号に連載「出版文化再生14」として掲載しました)