先日、トーハン主催で元社長金田万寿人(かなだ・ますと)さんの「お別れの会」が催された。大勢のひとが次々と現われては去っていくというかたちのお別れ会で、とくに誰かが話をするというものでもなかったのはいくらか寂しい気もした。金田さんは取次人としても破格の人望を得ていたひとだっただけに、とりわけそう感じたのだろう。わたしは金田さんにはいろいろ親しくさせてもらったからひとしお感慨深いものがある。
とりわけ社長になられて間もないころに、土曜は暇なので遊びに来てくれということで、午前中に社長室におうかがいし、お昼をごちそうになりながらいろいろ懸案の相談をさせてもらったことがある。ここではその内容についてはすべて書くことはできないけれども、とにかく「未来」でのわたしの連載[未来の窓]についてはいつも意見を言ってくれ、親身に未來社のことも力になってくれたひとである。
『出版文化再生――あらためて本の力を考える』の注で触れたことであるが、鈴木書店が倒産しそうになったときに、わたしが当時の鈴木書店幹部に頼まれてトーハンに買収を申し入れにいったことは忘れられない記憶のひとつである。社長になられて三か月ほどだったこともあり、当時トーハンは株式上場を考えていたから赤字会社をもつことはむずかしい事情があり、検討はしてくれたらしいが、実現しなかった。また日販が立ち上げたブッキングにたいしてデジタルパブリッシングサービスを立ち上げたときも、いろいろやむをえない力関係で立ち上げた会社をどうするべきか意見を言ってくれということで、率直に意見を言わせてもらったことがある。ブッキングはわたしの予想通り五年ぐらいで消滅したが、デジタルパブリッシングサービスがいまも健在であるのは、そのとき出版社はそんなに簡単にコンテンツを提供することはない、とわたしが断言したことにもとづいてトーハンが凸版とのツテを利用して出版社に働きかけたことが功を奏したのではないか、とわたしは思っている。
いろいろな会で見かけると向こうから近づいてきて親しく話をしてくれたのは、わたしにとっては取次人でもほとんど金田さんぐらいしかいない。そうしたことを思い出すにつけ、金田さんに会う機会がなくなってしまったのは、ほんとうに残念である。
金田さんとの出会いはわたしが未來社に入社してまだ日が浅いころで、親父の肝いりで未來社とトーハン幹部との会合が設けられ、未來社の注文制という枠組みのなかでどんなことが可能かという問題を論じ合う機会があった。そのときが初対面の金田さんはまだ仕入の係長だったが、そのときから急速に親しくさせてもらったのである。おそらく一九八〇年前後だったと思う。その後、何年かして人文会の研修旅行で山陰地方をいっしょに回ったことがあり、どこだか忘れたが「カナダ村」というところがあって、金田さんが自分の村だと言っておおいにはしゃいでいたことを思い出す。そこでさらに親しくなった。そのとき同行したのは日販の橋昌利さんで、こちらは剣道五段だが話のわかるひとだった。そういうひとたちも業界からいなくなってしまった。出版業界がとても元気な時代だったのだ。いまは金田さんへの深甚な感謝を捧げたい。(2014/2/14)