2014年アーカイブ

 先日、論創社の森下紀夫社長から渡された小泉孝一さんのインタビュー本『鈴木書店の成長と衰退』を読んでみた。10年前に倒産した鈴木書店の生え抜きのひとりとして創業者の鈴木眞一氏を支え、苦楽をともにしてきたこの取次人の発言記録は、わたしにもたいへん興味あるものであり、鈴木書店時代の最後のころと、請われてベイトソンなどの翻訳を出している小専門書出版社の社長を引き受けていた時代にとても親しくつきあわせてもらった者にとって、さまざまな情報をもたらしてくれるものであり、感慨深いものがあった。
 この本には未來社と先代のことも何度か言及されており、西谷能雄が紀伊國屋書店松原社長と鈴木書店とのトラブルに介入した話など、わたしも知らなかった。日販が鈴木書店を買収しようとした話もあり、また、わたしが、当時、岩波書店とともに鈴木書店の経営に参画していたみすず書房の小熊勇次前社長(当時)の意向を受けて、トーハンの金田新社長に鈴木書店の買収を打診しに行った話(西谷能雄となっているのは能英の間違い)のことも出てくるし、鈴木社長のあとをうけた宮川社長との古くからの軋轢のこともいろいろ出てくるし、社内改革に苦慮している話も何度も聞かされた記憶がある。それぞれ腑に落ちる話である。わたしが岩波書店やみすず書房、東京大学出版会などに声をかけて小泉さんを中心に「鈴木書店を励ます会」をつくってしばらく定期的に会合をしたこともあった。結局、小泉さんは退社に追い込まれて、そうした協力関係も生かせなかった。このインタビューを読むと、小泉さんも言うように、鈴木書店がなんとか存続していたら、いまの出版不況にたいしてなんらかの打開する力になっていたかもしれない、というのはすこし未練がましいが、ほんとうである。
 しかし、この本の最後でインタビュアーの小田光雄が書いていることを読んで、愕然とした。なぜなら、このインタビュー(2011年10月)の校正をいちおう終えたあとで、3年ちかく小泉さんと連絡がとれなくなってしまい、「未刊のままで放置するのはしのび難く」刊行に踏み切ったこと、「最悪の場合はこのインタビューが遺書として残された」可能性があると、書かれていたからである。そう言えば、いつも年賀状をやりとりしていたが、このところ途絶えていたな、といまさらながら気づいた。このインタビューに同席したらしい後藤克寬さん(元鈴木書店)がJRC(人文・社会科学書流通センター)を立ち上げるときにはわたしや森下さんらとともに支援の中心になってくれたのが小泉さんだった。いっしょに何度か呑んだが、あの明るく歯切れのいい声をもう聞くことはできないのかもしれないと思うと、なんだかひどく世の中がますますさびしく思えてくる。(2014.12.30)

 未來社版「日本の民話」シリーズ全七五巻・別巻四冊が第1巻『信濃の民話』をもって刊行開始された一九五七年からすでに半世紀以上が経過した。それぞれ何度も増刷してきた看板のシリーズであったが、なにぶん版が古いものが多くなり、活版印刷が事実上消滅してしまったことなどもあって、新たな増刷がむずかしくなっていた。
 一時は未來社版五二巻分を元版として製作されたほるぷ版「日本の民話」全二六巻がたいへんな売行きを示したこともあり、ほかにも何種類か同様の企画もあったりなどしたうえに、未來社版を使って一九七五年にはじまったTBSテレビでのテレビアニメ「まんが日本昔ばなし」が市原悦子さんと常田富士男さんの名語りで毎週ゴールデンアワーに放映されたこともあって、空前の「民話」ブームを巻き起こしたことはご存じの方も多いだろう。番組の終りにテロップで未來社版の出典が流されたことも他社の羨望の的になっていたこともなつかしく思い出される。その後、各社の同工異曲の民話本が刊行されたりしてしだいにブームも下火になったが、未來社オリジナル版シリーズは定評があり、いまにいたるも要望はたえず、品切れになった巻はやむをえずオンデマンド本作成でもって対応させてもらってきた。
 このオンデマンド本は元版からそのまま製版したものだけにその雰囲気はともかく、お世辞にもいまの読者に馴染みやすいものとは言えず、さらには定価も相対的に高くならざるをえず、本の性格上ひろく読まれるには難があった。それでもオンデマンドという方法は品切れになることがないので、どうしても必要とする読者には応えられるというのが唯一のメリットであった。それにしても、なんとか対応できないかと苦慮していたところへ、思いがけないかたちでチャンスがまわってきたのである。
 二〇一二年の経済産業省が関与した「コンテンツ緊急電子化事業」のさいに本シリーズの東北篇十一冊を電子化したのをきっかけに、オンデマンド印刷会社デジタル・パブリッシング・サービス(DPS)の強力なバックアップを受けて全巻のデジタル化=テキストデータ化を実現できたのである。このデジタル化したデータを使って紀伊國屋NetLibraryおよび丸善eBook Libraryでの大学図書館向けライセンス販売をDPSを介して展開してもらう一方で、今度はこのテキストデータを利用してシリーズ全巻の再刊を実現しようということにした。
 テキストデータはOCR(文字読み取り機)を使ってかなり精度の高いデータができており、これを徹底的に読み直して校正をしながら、わたしのテキスト実践技法をフルに応用して完全入稿原稿を作るという方法で、正確かつスピーディーでローコストの再刊が可能となる。こういったやりかたでやれば、企画から編集段階での著者とのさまざまなやりとりの手間とコストがかかる通常の新刊のおよそ一~二割程度の手間で一冊の新刊ができることになるわけである。読者が手に取りやすい判型と価格での実現を考えている。これには主要取引先の萩原印刷の理解ある協力によってより実現がしやすい環境が整いつつあることも言い添えておかなければならない。
 わたしもさっそく第1巻の『信濃の民話』を手始めに第【11】巻の『沖縄の民話』を手がけているところであり、このシリーズ用にさまざまな編集上の手法やテキスト一括処理用のマクロなどを開発中で、そうした方法を取り込むことによって編集作業がさらに高度化できるのではないかと思っている。もちろん、こうした技法や手法だけではなく、本の内容をしっかりと再現するべく校正と読み込みに気を入れなければならないのは言うまでもない。
 しかし、たいへんうれしいことには、わたしの予想をはるかに超えて、これらの民話がなんとも心温まる話が多く、感動しながら読むことができることであって、読み直しをかねた校正がすこしも負担であることなく楽しいことである。ときに悲しい話や残酷な話があるのはこの種の話では往々あることでいたしかたないが、こうしたこともふくめて、日本人のこころのふるさととも言うべき民話の豊かな民衆的伝承の世界は、いまのぎすぎすした経済主義一辺倒に成り下がった日本人のこころの原点を指し示す非常に有意義な世界を開いてくれる。これからの子どもたちに本が提供するすばらしい世界を知ってもらうことにもつながればたいへん意味のあることだし、本を読む習慣を早くから身につけてくれる機会にもなってほしい。このシリーズの再刊を思いいたった理由である。
 そこで残るのは製作スケジュールと販売方法の検討である。はじめは全七九巻を全巻プレミアム予約というかたちで一挙に全巻再刊してみようと思い立ったが、どうもそこまでの社の体力があるとも思えないので、たとえば毎月三冊ぐらいを定期配本していくような手法を模索中である。これだけ大きな企画は未來社でも経験がないので、どういう方法や可能性があるのか取次や書店の専門家にこれから教えてもらう必要がある。同時に電子書籍化も視野に入れているのでなおさらである。あまり無謀なことは避けなければならないが、すくなくともすでに実績のあるシリーズだけに失敗する危険はないだろうが、今日のような出版不況のなかでなんとかそれなりの成果を挙げたいと思っている。(2014.11.30)

 未來社のPR誌「未来」は1968年以来46年にわたって月刊を維持してきたが、この10月号をもって月刊をいったん終結し、来年1月刊行予定の号から季刊に移行することになった。長いあいだ購読していただいてきた読者および関心をもってきていただいた方々にはこの場を借りて長年のご愛顧へのお礼とお詫びを申し上げたい。
 小社は委託制をやめて注文制を採用するにあたって最終的な顧客である書店および読者への理解と協力をもとめて、それまで不定期刊であり新刊案内的パンフレットにすぎなかった「未来」を、出版社と読者のあいだをつなぐリトル・マガジンとして戦略的PR誌という位置づけから月刊に移行したのである。注文制というどちらかと言えば出版社本位とも受け取られかねない販売方法における書店店頭での露出度の低下を補い、その本を必要とする読者にできるだけ適切な出版情報を届けるために、自社出版物をふくむ出版環境・読書環境のよりよき整備へむけておこがましくもたんなるPR誌を超えた出版情報誌としてスタートを切ったのだった。
 しかしながら当時に比べると未來社の出版点数が大幅に減少していることもあり、新刊点数に比して「未来」にかかる比重が過度に高くなってしまい、肝心の新刊製作が遅れをとるという矛盾したかたちになってしまっているアンバランスを解消するため、現在の力では季刊ぐらいがちょうど現実的だということにいまさらながら気づいたからである。おせっかいにも「未来」を廃刊したらどうかという「忠告」をしてくれるひとも出てくる始末だったが、未來社にとっては「未来」は生命線である。ほかにもいろいろ理由はあるが、とにかくこの季刊化という選択は一見、一歩後退のように思われるかもしれないが、わたしからすればより積極的な意味でのスリム化だと思っている。一号ごとの質と量をより充実させるかたちでの季刊化なら読者にも納得してもらえるだろうと判断したわけである。
 この決定通知を「未来」の9月号と10月号で二度にわたって掲載したため、思ったほどの混乱はなく、残念がってくれるありがたい読者はいるし、季刊化にあたって1号あたり100円から思い切って200円にさせてもらったことにたいしてもクレームはいまのところひとりも出てきていない。購読者減はおこることも想定ずみだが、いまのところ継続してくれるひとも多く、しっかり「季刊未来」と書いてきてくれるひともかなりいて、周知のうえでの購読継続ということがうかがわれる。たいへんありがたいことだと思いつつ、季刊後の内容にたいする期待と責任にたいして気をひきしめているところである。
 この季刊化にあたっては、公開するまえに連載中の著者や有料広告を出してくれている仲間の主要出版社、製作にかかわってくれている取引先にはみずから直接出向き、しかるべき立場のひとへの事情説明と了解をとったことは言うまでもない。この業界にありがちな無用な誤解や無責任なうわさ流しに事前に最小限の対応をしておくためでもあったが、そうしたこともすべて杞憂だったのかもしれず、むしろそうした変化にたいしてあまりにも無反応なのに拍子抜けしているぐらいである。
 そういうおりもおり、東京大学出版会が出しているPR誌「UP」6月号の「学術出版」コラムで責任者のK氏が「UP」500号刊行にちなんで書いていることが心に沁みた。「出版不況が深まっていく状況下で、いくつかのPR誌が休刊したり季刊へ変更になったりするなか、装いもかわらず、よくここまで継続してきたと思う」とK氏はまるで「未来」のことを予測していたかのように書いていたのだが、もちろん前後関係としてそういうことはない。ただこうした言説に表われるような状況が現実的に存在することは疑いない。とはいえ、「未来」の季刊化がもっぱら社内事情によるものであることから、こうした事態が他に及ぶことはいまのところ考えられないし、すでに書いたように、この季刊化は積極的な戦術的一歩後退なのであるから、新しい第一歩だと考えている。(2014/10/22)

「エディターシップ」3号に掲載された井出彰さん(現在、図書新聞社社長)の「『日本読書新聞』と混沌の六〇年代」という講演録がおもしろい。井出さんが「日本読書新聞」の編集長だった話は不覚にも知らなかった。新左翼系の運動家で官憲につけまわされていた話もなかなかリアルだ。わたしも「日本読書新聞」が廃刊になった1984年前半に半年間「詩時評」をいまは東京新聞にいる大日方公男に頼まれて書いていたので、この年の後半に廃刊になったことを記憶している。廃刊の理由がはっきりしないというのもおもしろいが、そのころは井出さんはもういなかったらしい。
 それにしても井出さんも話しているが、メモをとっていないのでいろいろ歴史的に重要な事実がはっきり日付を特定できないために、記憶だけにたよっているという問題がある。合同出版の経営に関与した「木曜会」というのがあったそうで、7社の硬派出版社の社長が毎年交代で社長をつとめた話が出てくるが、そのうちのひとりが西谷能雄だったとの話はわたしは聞いたことがない。井出さんも「たぶん西谷能雄さんの息子の能英さんだって、そういうことは知らないと思うのです」と語っているが、たしかにわたしも知らない話である。この7人とは竹森久次(五月書房)、小宮山量平(理論社)、竹村一(三一書房)と西谷能雄などで、井出さんに言わせると「彼らは共産党員であって」ということになっているが、わたしの知るかぎり父は共産党シンパではあっても党員になったことはなかったはずである。別にどうでもいいけど、井出さんに確認したところ、どうもそのへんは曖昧だったらしく、ひとから聞いた話だそうである。
 同じ号で、みずのわ出版の柳原一徳さんの「世代を繋ぐ仕事」という講演録もなかなかいい。「出版に携わる人間は、直截的な運動によって社会を変えていくのではない。一点一点、丁寧に、まともな本を世に出していくこと」がなによりも大切だというしっかりした視点をもっている。未來社にもかかわりのある宮本常一にかんしても、著作権を悪用する事件があったことにも触れていて、実態がはっきりわかった。宮本の生地と同じ周防大島出身だが、いまは畑仕事をしながらひとり出版社をつづけているそうで、地方出版はほんとうに大変そうだ。
 この号は、井出さんが父のことを話しているからとトランスビューの中嶋廣さんから送ってもらったものだが、なかなかの充実ぶりだ。中嶋さんの「鷲尾賢也と小高賢」は鷲尾さんの追悼文として読ませるものがあり、わたしは接する機会がほとんどなかったが、会って話しておきたかったひとだと思った。この鷲尾さんには二、三年まえにいちど声をかけられたことがある。たしか高麗隆彦さんが古巣の精興社の画廊で装幀本の個展を開いたときだったと思うが、鷲尾さんが編集(インタビュー)した本への[未来の窓]での批判を褒められたことを思い出した。あなたの言うことはほとんどあってますよ、と鷲尾さんは率直に言ってくれたのである。中嶋さんの文章によると、ひとを褒めることはほとんどなかったという鷲尾さんがどういうつもりでそう言ったのか、いまとなってはわからない。本のことが無類に好きで、「生まれ変わってもやりたい仕事だ」という編集者であった鷲尾さんからすると、わたしのような計画性のない、行き当たりばったりの仕事はさぞや編集者の風上にも置けないものなのだろうと痛感する。(2014/10/4)

(この文章は「西谷の本音でトーク」から転載したものです。)
 前回に書いたことのつづきを書く。川満信一・仲里効編『琉球共和社会憲法の潜勢力――群島・アジア・越境の思想』(未來社)の刊行を記念して那覇で開催されたシンポジウム(7月12日)のさいに、コメンテーターのひとりとして登壇された仲宗根勇さんとその日のうちに新刊企画の話が進み、帰京後すぐ送ってきてくれた論考や時評などを読んで、これはますます今後の琉球(沖縄)の動向にとってこのひとの論点提起はぜひとも必要になるだろうと直感し、できればこの1か月ぐらいで100枚の書き下ろしはお願いできないかということを相談したことまではすでに書いた。書けるかどうかわからないとされながらも、なんと翌月12日の日付が変わる2分前に最終原稿がメールで届いた。そのまえにも途中経過の原稿を二度ほど見せてもらいながら書いてもらいたいテーマの追加挿入や、気になる問題点の指摘をさせてもらって同時に推敲もしてもらいながらの完成で、約束通り1か月で書き下ろし(最終的には120枚超)を実現してくれたことになる。その律儀さもさることながら淀みなく力強い筆致に、ひさびさに書き手の思いの強さを感じさせられた。
 仲宗根勇さんの新著『沖縄差別と闘う――悠久の自立を求めて』は、この書き下ろしを巻頭に、1980年代に書かれ、今日の沖縄の状況にいまでもそのまま通用しうる、先見の明にあふれた前述の論考や時評を後半に配置して、11月16日の沖縄県知事選をまえに、9月中には緊急出版の予定である。自民党安倍強権=狂犬政権によって選挙前に既成事実化をねらって強行されはじめた名護市辺野古沖の世界的天然記念物サンゴ礁を破壊するボーリング工事など、世界的な指弾のなかで暴走をやめないこの軍国主義者は沖縄県知事選に向けてなりふりかまわない暴行をつぎつぎとすすめている。普天間基地の県外移設を公約に県知事再選をはたした仲井眞弘多を公約違反に追い込み、仲井眞では選挙に勝てないと迷走したあげく、候補者難から県連の意向も受けて仲井眞を推薦しているものの、このままではやはり勝てないと踏んでいるらしく、これまでにもまして裏工作や脅しなどによって政権維持に躍起となるだろう。仲宗根さんの本はこうした当面の課題である沖縄県知事選で県内移設を強引に押し進めようとする権力主義的=利権主義的思惑を打ち破るための理論武装にもなる本である。
 仲宗根勇さんは、正当な手続きもなく勝手な解釈で平和憲法をぶち壊そうとする安倍晋三の暴挙を「憲法クーデター」と呼んでおり、ヒトラーがワイマール共和国憲法をなし崩しに解釈して独裁を築いた方法と重ね合わせてみているが、まったくその通りというしかない情勢になっている。仲宗根さんは「あとがき」にこう書いている。
《二〇一四年十一月の沖縄県知事選挙は、沖縄の民意を無視し、海上保安庁、防衛局、警察を総動員し辺野古移設工事に狂奔する安倍内閣、正確にいえば、憲法違反の選挙で選ばれた無資格国会の指名で、「国家権力」を_^僭窃【せんせつ】^_している安倍一派による国家悪に立ち向かう民衆蜂起の性格をもたざるをえない。この選挙は沖縄の未来を決する大きな歴史的意義をもつ。安倍一派の辺野古基地建設強行こそは沖縄差別を明確に示す決定的な蛮行にほかならず、沖縄は、憲法クーデターによって憲法危機を公然化させ戦争国家へひた走る安倍晋三壊憲内閣と対峙して構造差別を断ち、悠久の自立へ向かう歴史的転換点を迎えようとしている。》
 まさにこの11月に行なわれる沖縄県知事選はたんにひとつの県の首長を決める選挙にとどまらず、軍事基地や周辺諸国とのねじれた関係を今後どうするのかという緊急課題をふくめて、日本の今後のありかたにも大きな影響を及ぼすことは必定である。軍国主義にひた走る安倍政権のやりたい放題への審判も問われているのであり、その進退もこの選挙の結果にかかっているといっても言いすぎではない。だからこそ、安倍は必死になってこの選挙を勝つための悪あがきをしているのだ。ヤマトに住んでいる人間の多くはこの選挙のもつ重大な意味を十分に理解していないのではないかとわたしは怖れる。現に、わたしの親しい友人でさえ、わたしの沖縄への肩入れを多く記述したわたしの本などは売れないと断定してくれる始末である。ヤマトの人間の沖縄への関心の鈍さ、というか世界理解への浅さはどうしてこんな程度のままなのだろうかと不信が募るばかりである。沖縄人の気持ちがよくわかるのである。
 さて、仲宗根勇さんは、沖縄の日本「復帰」をめぐって1970年代から80年代なかばにかけて反復帰論者として鋭い批判を展開した論客として広く知られていたが、裁判官(沖縄県から初めて合格し「熱血裁判官」としても知られたらしい)になるという立場からこの30年ほどは沈黙をせざるをえなかったひとである。だから沖縄の若いひとには馴染みのないひともいるだろうが(ヤマトではわたしもふくめて十分に知られていなかったが)、裁判官退官後ふたたびその舌鋒鋭い批判の論理は衰えることなく、むしろこの間の「沈黙」中に蓄積されたエネルギーが大爆発している感がある。今回の書き下ろしなどはその典型だろうが、20代後半から30代にかけて書いた論考をまとめた『沖縄少数派――その思想的遺言』(1981年刊、三一書房)にはすでにその痛快で切れのよい批判力と論理的一貫性が冴え渡っている。たとえば、圧倒的に多くの「復帰」主義者が祖国としての日本「復帰」を過剰に信じこんで、「復帰」後のヤマトの理不尽な経済的侵略、政治的切断などすべて予想を裏切られるかたちで沖縄がたんにヤマトに組み込まれるにすぎなかった事態を招いたまま責任もとらず、県会議員や県庁職員などに横滑りして自分たちだけが「成功者」になり、絶対多数の民衆は生活を破壊され塗炭の苦しみをなめさせられた現状を1980年時点でつぎのように総括している。
《日本復帰というものが、沖縄の民衆の、革新的な最大限綱領のような外貌をとりながら、実は、変革とはおよそ無縁の、いかなるナショナリズムも許容しうる程度の最小限綱領にほかならないことを、大部分の「復帰」主義者たちが、明確に認識しえなかったことに、沖縄社会の今日の事態の、ひとつの悲劇的要因が潜んでいたと言えるかも知れない。そうでなければ、彼ら「復帰」主義者たちは、沖縄社会のあらゆる分野の、あらゆる意味での「復帰犠牲者たち」の鎮魂の「墓標」さえ建て得ぬままに、無神経なまでに厚顔におのれの「栄光」をことほぐことなど、でき得るはずはないからである。》(『沖縄少数派』212ページ)
 仲宗根勇さんの新刊をこの時期に世に送り出せることの幸運をほんとうの幸福に結びつけるためには、沖縄の人間はもとよりヤマトの人間も本書を読んで事態の重大さに目をこらしていただきたいと切に願うのみである。
(2014/8/31)

(この文章はすこし短縮して「未来」2014年10月号に連載「出版文化再生18」としても掲載する予定です)

 報告するのがやや遅きに失した感があるが、逆に、その遅れがその後のさまざまな動きをあわせて報告する機会を作り出したと考えるならば、こうした「間合い」もときには有用であろうか。なにを隠そう、わたしがこれから整理しようとしている事態とは、この七月十二日に那覇でおこなわれた「いま、なぜ、琉球共和社会憲法か」というシンポジウムについてその類い稀なる充実の報告と、その後のさらなる展開のことである。もとよりこのシンポジウムはそのひと月まえに刊行された川満信一・仲里効編『琉球共和社会憲法の潜勢力――群島・アジア・越境の思想』(未來社刊)の刊行を記念し、そこで問われている沖縄の自立の問題をあらためて問い直そうとするものであった。
 何十年ぶりかの強大な破壊力を想定された台風何号だかをその日の午前中にやり過ごして、ほぼ定刻通りに羽田を飛び立ったわたしは前日に那覇入りをし、シンポジウムの主催者たちといつもの居酒屋で入念な「打合せ」をして、余裕をもって当日の会場(とまりん地下会議場)へとおもむいた。
 ゆったり座れば100人ぐらいは入る会場は思った以上に融通が利き、最終的には150人超の聴衆で埋まるほどの盛況であった。沖縄ではシンポジウムつづきでひとが集まらないのではという不安を吹き飛ばし、有力なひとたちが多くフロアに参集されたこともあって、議論は最初から白熱し、2時から6時までの予定が7時半まで、短い休憩をはさんでゆるみもなくおこなわれた。その内容は全部録音したが、これだけで一冊にしてもいいのではないかと思ったほど充実した内容だったと言っていい。ジュンク堂那覇店の細井店長みずから出張販売に協力してくれたこともたいへんありがたかった。販売結果は39冊とまずまず。終了後、場所を変えてさらに出版祝いと懇親会をかねて11時まで熱いメッセージの交換がおこなわれたことも付言しておきたい。
 さて、仲里効氏の巧みな司会進行によって、シンポジウムはまず元沖縄県知事・大田昌秀氏の開会挨拶「沖縄へのメッセージ」で開始された。それは通り一遍の挨拶に終わらずに、かつて少年兵として沖縄戦に半ズボンのまま狩り出された経験をもつ人間として、また県知事として日米歴代政府首脳と沖縄の米軍基地返還をめぐってさまざまに交渉した経験をふまえて、現在の安倍政権がいかにヤマトと沖縄の人間にウソをつき見えすいた隠蔽工作をしながらみずからの軍国主義への野心をむきだしにしてきているか、ということをさまざまな事実を暴露しながら述べて、琉球社会がいかに日本国憲法から切り離されてきたか、にもかかわらずこの平和憲法をいかに必要としているかを明らかにした。辺野古への基地移設がどれだけ日本の税金を必要としているか、その維持費も現在の70倍になること、建設費用もその時間も日本政府が言っているのは真っ赤なウソであってはるかに時間も費用もかかること、いちど建設されてしまえば200年は基地を返還させることはむずかしいこと、現在の基地の分散状態を集中させることによって米軍の攻撃力を飛躍的に増強できること、などがつぎつぎと明らかにされた。これはマスコミの黙殺もふくめて「本土」ではほとんど知らされていないことであり、この内容はヤマトの人間にも広く知られる必要があると思った。さいわいこの講演はテープ起こしした原稿に手を入れて「未来」9月号に掲載させてもらうことになった。ありがたいことである。
 つづいて沖縄を代表する論客3人による『琉球共和社会憲法の潜勢力』へのコメント的報告がおこなわれた。主として川満信一氏の「琉球共和社会憲法C私(試)案」にたいする賛否こもごもの意見であった。地元の「沖縄タイムス」と「琉球新報」の元論説委員が登壇することによって沖縄新聞界の関心の高さが証明されたわけだが、中央のマスコミ界からは「偏向新聞」と呼ばれていることも明らかにされた。今後の沖縄2紙にたいする安倍政権側からの特定秘密保護法などを利用した圧迫も想定しうるが、ぜひその反骨精神を守り抜いてもらいたい。そして提案にもあったように、川満憲法私案を受けてさらにより現実的な「中間マニフェスト」の草案づくりを急いでもらいたい。
 そうしたなかでもわたしにとって大発見だったのは、すでに仲里効氏からも示唆されていたことだが、川満憲法私案と同時に「新沖縄文学」に掲載された「琉球共和国憲法F私(試)案」の起草者でもあり、一九七二年の「祖国復帰」への痛烈な批判を展開した反復帰論の論客でもあったコメンテーター仲宗根勇氏の批判的舌鋒の鋭さであった。反復帰論の論客としての言説活動のあと、裁判官として長期に及ぶ沈黙を余儀なくされたあと、退官して発言の自由を再獲得した矢先だっただけに、往年の批判精神をひさしぶりに爆発させた感があった。若いひとにはともかく、年配のひとにとって仲宗根勇のその名前の通りの勇名は知れ渡っていたらしく、仲里流に言えば、仲宗根勇が来るというだけでひとを集められるというほどの注目株なのであった。それで会が盛況だったのかどうかはともかく、その発言には慣れない者には最初はどこまで本気なのかと思わされるぐらいの迫力があった。知るひとにとっては仲宗根勇健在なりを知らしめるものであったにちがいない。川満信一氏の飄々とした詩人ならではの洒脱さにくらべると、強固な論理で徹底して押しまくる剛毅のひとという印象であった。
 懇親会の席でさっそく仲宗根勇氏に企画の申し入れをして快諾してもらい、とりあえず1980年代前半の論考がひと束送り届けられたのは東京に戻って2日後であった。さっそく読ませてもらい、その言説のいまだに古びない先見の明と論理性、剛直な論旨にあらためて感心すると同時に、いまの視点でこの30年に及ぶ沈黙の期間の諸問題や、憲法学者としての立場から安倍首相の解釈改憲の危険性、暴力性、非合理性をふくめて、いまの問題を総合的に論じてもらいたいということで、書き下ろしをお願いしている。すでにすごい勢いで書きはじめられていることは、とりあえずの分を送ってもらっているのでわかっている。11月の沖縄県知事選をまえに、沖縄をこれ以上悲惨な状況に追い込まないための理論武装のためにも緊急出版を予定している。おもしろいことに、わたしの「日録」での記事をさっそく見つけてこの企画について問い合わせてきた富山の「生・労働・運動ネット」というグループの運動家が、仲宗根勇さんの書いたものに関心をもっていることを伝えてきたりしている。
 シンポジウムの第二部は、冒頭にわたしの『琉球共和社会憲法の潜勢力』出版のいきさつについてのスピーチが要請され、出版についてのわたしの思いをのべさせてもらったところ、なんと4日後の「沖縄タイムス」紙の「魚眼レンズ」というコラムで写真入りで紹介されてしまった。「出版人として社会に対する批判的視点の強い本を一冊でも多く出したい」という決意を述べたことが紹介された。これもありがたいことである。
 その後は『琉球共和社会憲法の潜勢力』の執筆者4人(大田静男、高良勉、山城博治、丸川哲史の各氏)による報告があり、時間の制約のなかでそれぞれの視点から川満憲法私案の可能性と拡張性について述べられ、興味深い問題の指摘などもあったが、できれば本でそれらの見解にあたってもらいたい。
 今回のようにこれほど稔りの多い沖縄行きはなかったかもしれない。沖縄での熱い議論と熱気を持ち帰ると、ヤマトの、東京のひとたちの覇気のなさ、我れ関せずの沈滞ぶりに愕然とする。ここはあきらめずに、問題意識をもった数少ないひとたちと粘り強く闘争をつづけていくしかないと気合いを入れ直しているところである。(2014/7/31)

(この文章はすこし短縮して「未来」2014年9月号に連載「出版文化再生17」としても掲載します)

〈編集とは何か〉あるいは〈編集者とは誰か〉という問いは、通常の技術論的な位相を超えて存在論的あるいは文化論的な問いとしてとらえなおそうとすると、ひどく独善的な決定論に陥りやすい。編集者自身が自己規定すると、みずからの個人的営為にすぎないものをえてして必要以上に正当化してしまいがちである。そういう編集者を何人も知っているし、自分にもはねかえってこないともかぎらない、ややこしい問題でもある。編集者とはどうあるべきか、などとそもそも大上段に構えること自体、編集者=黒子説という世間的常識からすれば、とんだ思い上がりになりかねない。しかし、そうは言っても、編集者や出版社がいかなるポリシーももたずに、編集や出版の営為にたずさわっているということは考えられない。すくなくとも文化や芸術、学問的な仕事にかかわろうとする編集者はなんらかの規準をもつべきだし、もっているだろう。ただ通常は、こうした作業とのかかわりをことさらに言説化しないだけだ。
 だから編集者の仕事について触れる場合、多くは技術論または出版関連の周辺情報的なものに終始し、その内容が深く論及されることはほとんどない。ところが、そうした編集者の仕事をその存在論的あるいは文化論的な位相にまで踏み込んで論じた本が現われた。哲学・神学研究者である深井智朗『思想としての編集者――現代ドイツ・プロテスタンティズムと出版史』(2011年、新教出版社刊)がそれである。
 深井はこの本で自身の研究領域である神学研究から導かれた知見にもとづいて二十世紀前半ドイツの出版界の動きのなかに類い稀な編集者=出版人のサンプルを何人も見出している。表現主義時代のオイゲン・ディーデリヒス、左翼的運動家でもあったヴィリー・ミュンツェンベルク、廉価なポケット版シリーズを生み出したエルンスト・ローヴォルト、クリスティアン・カイザー社という名門出版社を引き継いだアルベルト・レンプといった、それぞれ個性と見識ある編集者=出版人の仕事を思想史的に位置づけながら、それらがあるべき文化や思想の推進者として重要な役割を果たしてきたことを実証する。深井は、これまでの思想史研究が著者としての思想家のテクストがどのように受けとめられてきたかという側面ばかりに目が向けられていたことに疑問を呈し、とりわけ学問的・宗教的・政治的な著作が世に広められるにあたっては編集者=出版人の理解と戦略が大きく影響したことを主張する。
《近代以後、大学やアカデミーという制度がかつてのような権威を失い、相対化され、そのような制度を超えて、大学の外での学が特別な意味を持つようになり、専門家集団としての大学人や学会員だけにではなく、広く大衆に思想の市場が拡大し、さらに市場が思想の価値を判断するようにさえなり、思想が一部の知的サークルの独占物ではなくなった時、この枠組み(「著者―読者」関係という枠組み――引用者注)は壊れ、両者の間に新たに知のプロモーターとしての編集者が登場したということはできないだろうか。彼らは自明の権威に代わって、マーケットが必要とする思想を供給するために登場した。だからこそ彼らは経営や技術としての印刷という問題を超えて、思想内容ともかかわるようになった。》(17-18頁)
 そして深井は、「著者―読者」関係という枠組みを超えて「著者─編集者─読者」関係という枠組みが登場したというのである。これはドイツのプロテスタンティズムにかかわる個別事例というだけではなく、二十世紀以降の近代的出版のありかたを的確に先読みしたものであったと言える。編集者=黒子である以上に、《編集者はその思想家の最初の読者となり、そして読者との接点を生み出すのであるから、思想のテクストを社会化するという大変重要な位置にいることがわかる。思想は著者によってロゴス化されるが、現代においてはさらに編集者によって社会化されるのである。》(79-80頁)ここから深井は〈思想としての編集者〉という概念を引き出してくる。
 わたしにはいささか面映ゆい命名ではあるが、編集者はみずからの思想をそれとしてではなくとも、その編集した出版物を通じてある種の傾向(=思想)として表現することは事実である。その手がける学術書、啓蒙書、文学書、芸術書等を通じて一貫しているのは、特定の政治的な立場の弁護としての無批判的な出版=編集なき出版ではない、つまり社会や体制に迎合するのではなく、これらに根本的な疑義を呈する書物の出版を心がけることである。社会や学問はつねに現状を乗りこえて発展していこうとする。そうした可能性に向かおうとする著者を支援すること、体制になんら新たな発見をもたらさない書物には見向きもしないこと、そういう意味で編集とは批判なのだ。
 深井のつぎのようなことばはその意味で重要であり、とりわけ現代的な意味で示唆に富んでいる。
《社会の主流に反して書物を出し、思想を問うという場合には、その時代の社会の動向を十分に知りつつも、それにあえて反する書物を出すということであるから、そこに出版社の神学や政治的態度が自覚的に現われ出ることになる。その場合にはまさにその思想は社会の木鐸となり、問いとなり、新しい時代の言葉となる。苦しい経営状況の中で破綻がやってきたとしても、時代に対してひとつの使命を果たしたという解釈が可能となる。/しかしその破綻の原因が、出版社がその時代の政治的動向を十分に理解せずに、時代とずれてしまった自らの立場を、ドグマのように奉じ、その路線を無自覚に踏襲しただけだったとすれば、それは出版社の怠慢、そして逆説的なことであるが出版社の保守化が起こったということである。思想はラディカル、リベラルでも、出版社、編集者の態度が保守的、権威的、伝統主義的なのである。》(160-161ページ)
 肝に銘ずるべきことばである。(2014/7/7)

(この文章は「未来」2014年8月号に連載「出版文化再生16」としても掲載の予定です)

 丸山眞男さんと未來社の関係は、小社創立以前に遡る。創立者の西谷能雄が弘文堂編集者時代から丸山さんとつきあいがあり、いろいろな事情(世に言う「夕鶴事件」など)があって独立するときに、丸山さんと本を一冊出すという約束があったようである。当時、新進気鋭の著者だった丸山さんの本を出したい何社かと同時にいくつもの企画が進行していたようで、内容も入れ替わったりしたらしい。
 ともかく未來社からはジャーナリスティックな政治学論集を出そうということで、「世界」一九四六年五月号に発表され、世間を震撼させた「超国家主義の論理と心理」をどういうわけか巻頭にいただいた『現代政治の思想と行動』が上下本二分冊で一九五六年とその翌年に刊行されるにいたって、この本は戦後日本を代表する名著の一冊になった。さらに一九六四年に大幅に増補された「増補版」が刊行されるにおよんで、日本の政治学はもちろんのこと、日本思想にかかわる者にとっては避けて通れない一冊になった。
 まだ創業まもない未來社のような小出版社(いまでもそうだが)にこの企画をさらわれた実力ある出版社が編集会議で責任問題をめぐって大もめにもめたという話を聞いたことがある。それほどにインパクトのあった本なのである。
 丸山さんは文庫ぎらいで有名であり、また容易に本を出さないことでも知られていた。『現代政治の思想と行動』の増補版を出すときにも、ゲラに赤字を真っ赤になるほど入れて五校ぐらいまでいったあげく、元に戻ってしまったというエピソードも聞いたことがある。そのゲラは額に入れて、なにかの催しのさいに展示したこともあるが、それほどにも校正に厳格な方だった。いまでもゲラに相当な赤字を入れるひとをみると、まるで丸山眞男みたいな大学者だなと冷やかすことがある。とにかくこうしたスケールの著者はいなくなったというのが偽らざる実感である。(2014/6/20)

*この文章は書店での丸山眞男共同フェアのためのチラシ用に書いたものです。

 東京新聞の広告ページのなかに「本の現場から」という150字分のコラムがあり、編集上の裏話がほしいとのことなので、以下の短文を寄せた。掲載は6月27日号らしいが、短かすぎて説明不十分のところがあるかもしれないので注を補足しておきたい。取り扱った本は前項でも取り上げた川満信一・仲里効編『琉球共和社会憲法の潜勢力――群島・アジア・越境の思想』である。
《この本は編者二人と那覇の居酒屋(*)で歓談中に企画されたもので、33年前の共和社会憲法私案(**)発案者川満さん独特の「いまさら、あんなもん」という照れで宙に浮いていたが、昨年末にふたたび点火された(***)。書き下ろし原稿を11本緊急に集めて安倍首相の憲法改悪(解釈改憲)にぶつけるべく強力な絶対平和主義論が実現した。》

(*)那覇の居酒屋とは「抱瓶」のことで、わたしの日誌によれば2010年6月6日の夜のことであった。
(**)「新沖縄文学」1981年6月号に発表された「琉球共和社会憲法C私(試)案」のこと。『琉球共和社会憲法の潜勢力――群島・アジア・越境の思想』に収録。
(***)2013年12月21日の東京外国語大学での「ラウンドテーブル 自発的隷従を撃つ」で招待された編者二人と二次会で盛り上がった話はこのコラムの「80」で書いた通り。(2014/6/20)

 すでにこの[出版文化再生]ブログの「80 絶対平和主義の社会構想――『琉球共和社会憲法私案』をいま問い直す必要」で書いたように、昨年末の東京外国語大学でのイベントのさいに、ゲストとして招かれていた沖縄の批評家仲里効さん、詩人の川満信一さんと会い、以前からあたためていた企画をあらためて世に問おうということになって、年明けから企画書をつくり、執筆者に呼びかけてこの六月に刊行の運びになったのが『琉球共和社会憲法の潜勢力――群島・アジア・越境の思想』である。
 スタートが予定よりすこし遅れてしまい、予定していた執筆者の何人かが書けないという事態になってしまったが、それでも十二名の協力を得て三〇〇ページ超の質量ともに十分な書物となってこのほど結実した。執筆者の何人かが予定の枚数を超えた力作を書いてきてくれたからでもあったが、最初の構想どおりに実現していたら、いまの倍になったかもしれない。それはそれで壮観だったろうが、この本が現在の琉球人にとって自分たちの将来を考えていくうえでの自己決定を迫る問題提起の書としてひろく読まれるためには、今回の分量ぐらいがちょうどよかったのかもしれないと思う。
 編者の川満信一・仲里効ご両人の判断もあって、琉球側から(編者もふくめて)七名、ヤマト側から四名、そして海外(中国)から一名の執筆陣はバランスがとれているのではないか。当然ながらほかにしかるべき執筆者はまだまだいることは間違いないし、そのことは十分認識しているつもりだが、今回はいま現に強行されようとしている日本国憲法第九条を骨抜きにしようとする強権政治の策動にたいする強烈なアンチとして、すでに一九八一年時点で提出されていた川満信一さんの「琉球共和社会憲法C私(試)案」という絶対平和主義を志向する社会構想を、この二〇一四年という時点であらためてその思想的・政治的射程を探るテーマの必然性と緊急性においてともあれ刊行する必要があった。見るひとによっては不十分だったり偏向があるかもしれないが、これを企画・編集したわたしとしてはこうした出版行為はいま出版にかかわる者として現時点で避けて通ることは許されないものに思われたのである。いま手元に本文の一部抜きがあるが、なんとも言えない達成感がある。
 しかし、それと同時に、琉球の出自をもつわけでもなくそこに在住しているわけでもないヤマト(日本)の人間として、琉球独立をも辞さない、琉球人の自己決定権の確立を促すような挑発的すぎるかもしれない本を積極的に編集・発行する出版行為とはどういうものかとあらためて考えざるをえない。琉球にとって良かれと思って出版することがほんとうに琉球人のためになっているのか、当事者ではない自分がどうしてそれを判断することができるのか、という問いである。ある琉球人によれば、未來社の琉球関連の出版は、ヤマト資本の琉球への侵略行為だと言われたことがある。たしかに出版業も資本主義社会のなかでのひとつの企業行為である以上、そうした側面があることは否定できないけれども、未來社ごときの小企業があたかも大資本の侵略行為のように解釈されることがあるとは想定もできなかっただけに、そしてそういうふうに解釈されたことは経験したことがなかっただけに、驚きを隠せなかった。ヤマトの出版社が琉球関連本を出版し、琉球人に広く読まれることが琉球人への加担のつもりでも、その商行為の内実において琉球への資本投下と(不十分ながらも)回収という論理を避けることはできない。ヤマト内部ではこんなことは考える必要もないのに、どうしてこう忸怩たる思いにとらわれるのだろう。
 それはともかく、本書には企画の原点となった川満信一「琉球共和社会憲法C私(試)案」を巻頭に掲げ、さらにこの私案をめぐって当時からの琉球人の精神的支柱とも言うべき存在である平恒次(タイラ・コージ)氏と川満信一さんの一九八五年の対談「近代国家終えんへの道標」もあわせて掲載してある。これは川満憲法私案の意味と価値を当時の時点で解説し、「琉球人の趣味、思想、理想等の基礎的な共通性」としての「琉球教」の確立の必要性を明らかにしたものであり、いまとなっては貴重な記録である。さらに本書には現時点での琉球の実情を踏まえ、川満憲法私案を補足しあるいは補訂し(高良勉)、さらには「響和」(今福龍太)して来たるべき琉球理想社会、戦争も基地もない絶対平和主義を志向する豊かな社会の設立を願う新たな憲法私案の二種類の提案もなされている。川満憲法私案をふくめてこれらはいずれも、川満私案の第一条「われわれ琉球共和社会人民は、歴史的反省と悲願のうえにたって、人類発生史以来の権力集中機能による一切の悪業の根拠を止揚し、ここに国家を廃絶することを高らかに宣言する。......」ものであり、第二条「......軍隊、警察、固定的な国家的管理機関、官僚体制、司法機関など権力を集中する組織体制は撤廃し、これをつくらない。......」し、第三条「いかなる理由によっても人間を殺傷してはならない。......」といった徹底した平和主義をもとに、豊かな共和社会(響和社会)の設立を願うものである。
 さて、この本の帰趨がいかなるものになるのかは、すでに書いた事情によっておおいに関心のあるところである。琉球ではもちろんのことこの本が広く話題になり、日本の社会を今後どう編成したらいいのか、問題提起としての役割を果たすことができれば、琉球社会のみならずヤマト(日本)社会の沖縄依存体質、アメリカ寄り一辺倒の国家構造にも大きな変革のきっかけとなるはずである。
 そうした意味でも、この七月十二日に那覇でさっそくこの本をめぐって編者や執筆者が中心になってシンポジウムが開催されることになった。委細はこれから未來社ホームページなどで見ていただきたいが、どんな議論が展開されていくのか、ぜひ自分の目で確かめてみたいと思う。(2014/6/6)

(この文章は「未来」2014年7月号に連載「出版文化再生15」としても掲載の予定です)


「新文化」3029号(5月1日号)によると、ことしの3月期は書籍の新刊発行点数は7574点(単行本は5389点)で対前年同月比112. 4%(単行本は118. 1%)。しかしながら売上げのほうは書籍・雑誌合計で1945億4000万で対前年比94. 4%。このうち書籍は学習参考書やコミックスのまとめ買いなど消費税増税前の駆け込み需要があったとされるにもかかわらず対前年比で95. 5%、雑誌にいたっては93. 2%(月刊誌94. 3%、週刊誌88. 8%)とさらに低調である。ちなみに書籍の販売部数は8956万冊で対前年比99. 1%。1月からの対前年同期比では97. 2%である。
 これはどういうことかと言うと、単行本書籍にかぎって言えば、新刊はふえているにもかかわらず発行部数は1575万冊で対前年同月比100. 7%、一点あたりの発行部数は85. 3%にとどまっている。文庫・新書等の全書籍でみても86. 7%となっており、総じて一点あたりの初版部数を下げて点数をより多く発行する傾向がいちだんと強まったということだろう。通常の年でも3月は年度末ということもあり、発行点数が相当ふえるのであるから、ことしの12%以上の急増は消費税導入前の駆け込み製作といった事情もあるだろう。印刷所の話では4月になってからの入稿がかなり減ってきているらしいので、前倒し製作の現実は否定できない。しかしながら、実際はそうした出版界の思惑とは裏腹に読者は消費税増税前に本を買おうとはしなかったということである。つまり、ひとつには本を買う以前に、インフラやクルマなど高額商品購入による差額の利益を優先したということであり、本などは二の次だったということになる。
 ところで一点あたり発行部数の減少はある意味では適正化の方向へ進んでいることも示していると同時に、水増し企画のツケとしての一点あたり売行き部数減という結果でもあるのではないか。
 こう考えてくるとネガティヴにならざるをえない昨今の出版界だが、そう暗い面ばかりでもない。つまりは信じられる著者がすくなからず存在することがその最大の可能性をもちつづけていることである。たしかにコアになる読者数が相当数減少していることは否めず、そのことによってせっかくの好著も期待された読者数(販売数)を得られず、著者にも編集者(出版社)にも相応の還元が得られにくくなっているのは事実だが、だからといって利益重視のこれまでの路線から一歩引き下がって考え直していくならば、出版にはまだまだ無尽蔵の可能性が残されていることは否定できないからである。問題はどうやって出版社としての企業運営を成り立たせるだけの方向性をこれからも見出せるかということにかかっているということだ。
 世界はますます混迷を深めている。人智を尽くしてこの世界を改善し、平和を実現していくために戦うべき相手、批判すべき対象には事欠かない。この世界を制覇し独善を押しつけようとする勢力がいて、それに批判的に立ち向かおうとする人間がいるかぎり、そしてこういう世界のなかでもみずからの存在、生き方を不断に問う人間がことばを発しようとするかぎり、出版という営為によってそうしたポジティヴな声を実現する活動をつづけることには意味があるし、出版を通じて文化の再生をたえずめざしていくことはことばにかかわる人間としての最小限の矜持でもあるからだ。(2014/5/3)

 現在の安倍強権政治の破壊的政治運営が日本国民を破滅の道へ連れ込もうとしていることはこれまでにも何度も言及してきたが、そうした全般的なテロル政治が科学技術や学問のありかたにまで及んできている危機的状況をあらためて教えてくれる本が刊行された。この3月に作品社から刊行された佐々木力『東京大学学問論――《学道の劣化》』がそれである。
 国立大学の独立行政法人化が実施されたのは自民党小泉純一郎政権下の2004年だった。当時、国立大学教員を除いては、この独法化がほんとうは何をねらっていたのか、一般国民はおろか、直接的な利害関係の薄い私立大学教員などにおいてさえも、関心が薄かった記憶がある。国立大学教官の特権的身分の危機というふうに一般に受け止められていたフシがあって、国民的危機意識は低かった。わたし自身にも心当たりがあるのでえらそうなことは言えないが、しかしすでにこのあたりから日本の学問を担うべき大学が国家の一元管理のもとに、学問の自由と自治が奪われ始めていたのである。学問の自由が支配的な経済論理、政治論理によって底を割られ、国家の政策に従属しないか、経済的効率性にあわない科学や学問は廃棄、解体の方向に追い込まれてきたのである。いわば国策としての学問管理のもとに、それに批判的だったり反対する者は容赦なく権利を剥奪する、つまりパージされて社会的に葬られ、国策に迎合する御用学者ばかりが大学の中枢を担うという構図があらわになってきたようである。邪魔者はセクシュアル・ハラスメント、アカデミック・ハラスメント、パワー・ハラスメントといった、いきすぎた内部告発(もどき)によって大学や学界からパージしようとする風潮がいまや大学を席捲しているらしい。
 こうした大学と学問の置かれた危機的状況にともなって学問の劣化がとめどなく始まったことは学術出版をめざすわれわれにとってももはや拱手傍観しているわけにはいかない、ゆゆしき事態であると言わざるをえない。このままでは日本の大学の国際評価レヴェルの低下どころか、学問や科学の崩壊、優秀な頭脳の国外流出など歯止めがかからなくなってしまうだろう。最近のSTAP細胞の発見者と言われる小保方晴子さんの例などもそのひとつではないかと思われるが、そのことはさておき、東大教養学部科学史・科学哲学科の中枢を担ってきた佐々木力の場合は、こうしたいまの流れのひとつの典型ではないかと思う。
 この本は「あとがき」を書いている折原浩さんの挨拶文付きで贈られてきたもので(著者の了解も得てあると書かれている)、著者跋文のほかに第三者である折原さんの「あとがき」が12ページにわたって書かれている異例の本であり、書名の大仰さといい、みずからのセクハラ問題を論の中心のひとつに掲げている構成といい、いささかたじろがされる内容のものであったことは事実である。仄聞していた佐々木力のセクハラ問題を当人がどう釈明するのかといった下世話な関心もないわけではなかったが、どうも問題はそんなレヴェルにあるのではないらしいことが本書を読み進めていくなかでわかってきたからである。
 ことのおこりは2004年に佐々木力が大学院で指導にあたっていた台湾出身留学生の女子院生のセクハラ告発から始まったらしく、それを受けた当該研究室主任や研究科同僚、さらには東大教養学部、本郷の法学部の調査委員会といった学内の査問機関でのやりとりがいろいろあって、結局、停職処分、学部講義中止処分、大学院生の指導権の剥奪といった一連の重罪処分がなされ、のちに全面復権することになるのだが、それも形式的な復権にすぎないといったじつに隠微な「事件」である。ことの子細はわからないのでこれ以上言及する権利はないが、なんとも醜悪な権力的陰謀であると思わざるをえない。わたしも知っているひとが何人も関与しているらしいので、複雑な気持ちである。
 だが、問題はもっともっと複雑である。ことのおこりが独法化の始まる2004年だった、ということにあらためて注目しなければならない。佐々木によれば、独法化への移行が日程にのぼることになった2000年の夏に当時の教養学部長であったA教授(物理学専攻)が偶然遭遇した佐々木に言ったせりふがある。A教授は佐々木にこう言ったそうだ。「君はただでおかない。大学が独立行政法人になったら、上部の管理者権限が強化するので、覚悟しておくように」と(本書200ページ)。これが事実だとすれば、東大の原子力開発協力に批判的だった佐々木力を意図的にパージしようとしていた強大な学内勢力が存在していたということになる。
 これが佐々木の被害妄想でないと考えられるのは、東大工学部原子力工学科(1960年設立)がどれほど日本の原子力開発に国策的に協力し、原子力産業界への人材供給源となり、一枚岩的に批判者、反対者をパージしてきたかの事実を知ればすぐにわかることである。わたしも知っている安斎育郎さん(放射線防護学専攻)はその第一期生であり、在学中から異分子扱いされ、東京電力の社員スパイがいつも安斎さんの動向をすぐ横でチェックしていたほどであるのは有名だが、1975年の設立15周年パーティのときに、当時の教授が挨拶で「安斎育郎を輩出したことだけは汚点」とわざわざ言ったという話が本書で紹介されている(225ページ)。福島第一原発事故のときの原子力委員会委員長の斑目春樹は元東大教授、「3・11」直後にテレビで「原発は安全」をしつこく繰り返したが、途中でばったり出てこなくなって名前さえ忘れてしまうほどだった関村直人といった現役教授は、東電から毎年数億円の寄付を受けていたこともすでに明らかになっている現在、こうした「御用学者」たち利権勢力につらなる東大教授が数多くいるとしてもなんの不思議もない。わたしのつきあっている東大の著者たちの多くは人文系なので、こうした利権につながることはそんなにないはずだが、理系となるとこうした産学協同(大学闘争時代の打倒対象だったなつかしい標語だ)にどっぷりはまりこんだ影の世界があるのだろう。
 佐々木力は、みずから公言しているように、トロツキストであり、それでなくとも官僚や大学執行部から目をつけられやすいところへ、こうした国策科学への全面的批判者でもあったから、セクハラ疑惑にかこつけたレッドパージだった可能性はきわめて高い。大学を独立行政法人化するということはこうした異端分子を大学から排除するための方策だったことを考えると、こうしたことがますます進行している現在は、学問は「御用学者」のみの領域に成り下がっていく危険は増す一方なのかもしれない。このことを佐々木はつぎのように整理している。
《国立大学の法人化は、郵政事業の民営化とともに、新自由主義的私有化のきわめて重要な構成要素であった。現実の法人化施行の二〇〇四年度以降、大学当局=執行部の権限がきわめて大きくなり、教員の任期付雇用、解雇、処分などは、ドラスティックに非民主化されるようになった。研究者は、ごく一般的に言って、御用学者化されるにようになった。懲戒処分は、かなり恣意的に政治的になされるようになり、国立大学時代には保障されていた国家公務員としての権利は縮小され、処分に不服な者は、一回の審理だけで即刻解雇が可能となった。すなわち、不服申し立ては不可能になった。》(91ページ)
 この国はいま、おそるべき頽廃にむかって崩壊していこうとしている。佐々木力のセクハラ問題と同様な権力による国策批判者への恫喝と「事件」のでっち上げは本書でもいくつか紹介されているが、どれも同じ構造をもっている。「特定秘密保護法」などにいたるまで、さまざまな排除のしくみができあがりつつあるのだ。誰もがこうした監視と排除の目にさらされている。国民はこうした国家権力とそれに癒着する勢力のテロに最大限の警戒をしなければならないのである。(2014/4/20)

(この文章は短縮して「未来」2014年6月号に連載「出版文化再生14」として掲載しました)


 すでにこのブログの「77 追悼・木前利秋」で触れたことであるが、昨年十二月四日に亡くなった木前利秋さん(大阪大学人間科学研究科教授)の遺稿である『理性の行方 ハーバーマスの批判理論』を、未亡人である木前恵さんの了解を得て刊行させてもらうことになった。ようやく編集作業の最終工程に入ったところで、木前利秋さんの仕事ぶりについてあらためて思うところがあったので、今回は研究者の仕事と出版はどうあるべきかについて書いておきたい。
 この本の刊行のいきさつにかんしては、巻頭に「刊行にあたって」としてつぎのような一文を掲載する予定である。
《本書は二〇一三年十二月四日に亡くなった木前利秋氏の生前のユルゲン・ハーバーマスに関する論考を整理し、まとめたものである。
 木前利秋氏はハーバーマス論をまとめることを前提に、小社PR誌「未来」において二〇〇八年十月号から二〇一〇年一月号まで、二〇一〇年十一月号と十二月号、二〇一二年九月号から十一月号まで、合計二十一回の連載をおこなった。最初の十六回分は本書の第一章から第三章、次の二回分は第四章、最後の三回分は第五章に該当する。連載終了後、掲載原稿の全ファイルをまとめて木前氏に校正用に送っておいたが、なかなか進まず、その間に木前氏は体調を崩され不帰のひととなってしまった。
「未来」の連載原稿はそのつど厳密な校正をほどこしたもので、そのままにしてしまうのはあまりにも惜しい内容であり、これだけでも十分に立派なハーバーマス論としてまとめられるものだと思われたので、夫人の木前恵氏の了解のもと、生前の木前氏と関係の深かった上村忠男、岩崎稔両氏の査読を経たうえで刊行されることになった。ほかにハーバーマス関連の文章が四本ほど見つかったので、付論として収録することにした。
 そして原稿の読み直しと表記の統一その他のチェックを進めていたところ、恵氏から木前氏の使っていたパソコンのなかに元原稿に手を入れたらしいファイルがいくつも見つかったとの連絡が入った。さっそくファイルを送ってもらい照合してみると、相当な修正をくわえたものだということがわかった。とりわけ連載の前半は大幅に書き直そうとしていたことが明らかになった。亡くなる年の二〇一三年の夏頃まで、体調不良のあいまをぬって手を加える作業を繰り返していたことがファイルの最終修正日で確認できた。つまりほんとうに仕事ができなくなってしまった直前までこのハーバーマス論に手を入れていたことがわかるのである。亡くなる前まで夫人にこの仕事を仕上げたいという希望を述べていたということも伝えられている。まさに渾身の一冊として最後まで全力を投入されていたことになる。
 こうしたなかで原稿の徹底的な見直しと改稿ファイルにもとづいて修正をおこなったのが本書である。そのさい、藤原保信・三島憲一・木前利秋編著『ハーバーマスと現代』(新評論、一九八七年)に掲載された「理性の行方」という論文が徹底的な改稿をほどこされて本書のはじめに置く構想をもっていたことが確認できたので、これを急遽「序章 近代の行く末」(タイトルは改稿ファイル通り)として収録することにした。
 木前氏の最終的な構想が本書の通りになったかどうかは、いまとなっては不明のところがある。章ごとの改稿ファイルにはところどころ構想途上のメモらしきものもあり、本書第一章第三節、第二章「むすびにかえて」、第三章第三節後半以降は改稿ファイルにはなぜか存在しない。改稿途上であったのか、削除予定だったのかはにわかには判断できないが、内容からみて連載時のデータをそのまま掲載することにした。第四章は修正もすくなく、第五章にいたっては改稿ファイル自体が存在しない。おそらく連載の最後のほうはほとんどできあがっていた本の構想にあわせて執筆されたからではないかと推測しうる。それに比べるとまだ構想が十分に練れていなかった時点で執筆された前半は徹底的に改稿されており、それだけ意図が明確になっていると思われる。
 木前氏が存命していればより充実したものになったであろうが、いまはこれをもってよしとしなければならない。せめてもの供養になればさいわいである。》
 ここに刊行のいきさつの細部にわたって基本的なことはすべて触れており、また最初に言及したこのブログの「77 追悼・木前利秋」で亡くなったときの事情も書いているので(この追悼文は亡くなった三日後に書いたもので、本の付録にも収録した)、ここではいくつか必要な補足だけしておきたい。
 まず木前利秋さんが原稿を書くことにきわめて慎重で準備がととのわなければなかなか着手しない書き手であったことはかなり知られていたらしく、教え子の亀山俊朗さんの話では、木前さんが「未来」に毎月連載をしていたことなどはまったくの奇跡と周辺では受けとめられていたそうである。いわゆる「遅筆」のひとなのである。たしかに毎回ぎりぎりのところでの執筆と校正のやりとりがつづき、たいへんであったことは否定できない。西谷方式のテキスト処理と仮ゲラ校正の方法でなければ、おそらく間に合わないことがつづいたことだろう。しかしそうでもしなければ、当人もここまでの原稿をこれほど早く書けなかったのではないかと思う。
 最初の十六回の連載はいちども欠稿することなく完了したが、そのあと二章か三章分を書き下ろす予定だったのがいっこうに進行しないため、短期連載を二回(二章分)してもらったことでなんとか完成したつもりであった。「刊行にあたって」に書いたように、これらの全データを木前さんに送って、あとは校正を待つのみというはずだったのである。ところが、木前さんは古い論文に全面的に手をくわえた「近代の行く末」という序論に該当するものを用意していたのであり、「未来」連載分にかんしても元原稿に徹底的な改稿を用意していたのである。とくに最初の十六回の連載分は、こちらの都合でかなり急な依頼で始められたせいもあって、相当な修正が入っていることが判明した。連載が始まる二〇〇八年に刊行された『メタ構想力――ヴィーコ・マルクス・アーレント』という生前唯一の単著となった本を刊行したさいにもゲラに相当な赤字が入ったことからみても、木前さんはおそらく最後の最後までよりよいものにするための修正をくわえる執念のひとでもあった。
 わたしの知っている範囲で元の原稿にこれだけ手を入れる著者はきわめて少ない。原稿を書いたときの気合と感覚を大事にして元稿にほとんど手をくわえない文学系のひとが多いが、木前さんほど入念な推敲をするひとは稀である。まことに木前さんは研究者の鑑であった。おそらくこれまで書いてきたものの質と量からすれば、生前に何冊も単行著書を刊行していて当然の木前さんがようやく二冊目を出そうとしていたことがそうした慎重さの結果であったことを思えば、そうした木前さんをもっと励ましていかなければならなかったといまさらながら残念でならないのである。こうした貴重な著者の仕事を掘り起こし世に出していくのは、出版文化を標榜するわれわれ専門書出版社にとって最大の責任なのである。(2014/4/7)

(この文章はすこし短縮して「未来」2014年5月号に連載「出版文化再生13」としても掲載の予定です)

 一九九二年にわたしが編集したカール・シュミットの『独裁』の訳者解説として書かれた田中浩さんの文章がある。
《独裁の問題は、こんにちでは、とかく社会主義国家にのみ特有の問題として考察の対象とされている。事実、この問題は今後二一世紀にかけて現存社会主義国家自体が解決していくべき重要問題であると思われるが、同時に、独裁の問題は自由社会を標榜する資本主義国家にとってももはや解決ずみの問題となっているわけではない。》
《そればかりか、「政治の世界」においては、国内政治・国際政治を問わず、たえず「例外状態」が発生し、政府はしばしば独断的行動と決断を迫られることがありうるであろう。このさい重要なことは、そうした行動や決断がどの程度、国民的合意や支持を得ているか、ということである。したがって、独裁の問題は、その国における民主主義の成熟度をはかる試金石とも言える。(中略)「独裁」という問題が、政治的危機状態を口実にたえず登場してくるものであるとすれば、そうした独裁が専制に転化する状況を食い止め、あるいはそれに歯止めをかけ、さらには、独裁的措置を早急に正常な政治状態に復帰させるためには、国民の側としては、「言論・思想の自由」や「政治参加の自由」などの諸権限を強化することに努め、そうした「独裁」の危険性に対抗していかなければなるまい。》
《現代のようなめまぐるしく変化する国際的政治・経済情勢においては、「例外状態」=独裁にかんする問題は、「一国民主主義」や「一国の法律」の枠内だけではとうていおさまりきれない問題を含んでくる。これをいま「独裁の国際化」と名づけるならば、この問題をめぐる国際的独裁の問題は、「緊急事態」と「決断の必要」という名目の下に国際社会における「平和の破壊」と「戦争の危険」にまで結びついている》。
 最初から長々と引用したが、いま、これをふくんだ『田中浩集第三巻 カール・シュミット』の編集にかかわっていて、これらの文章と再会し、二十年以上前に書かれた文章が現今の日本および日本を取り巻く東アジアそして世界の政治情勢にたいしてあまりにもぴったりくることにあらためて驚かざるをえない。ソ連邦の解体にはじまり、イラク、アフガン、パレスチナとつづく紛争の日常化、そして竹島、尖閣諸島をめぐる日中韓のあいだの領土争い、さらにはこのたびのウクライナ危機......。
 第二次安倍政権が企図していることはすべて現在の状況を「例外状態」とみなすように危機意識をあおり立て、「言論・思想の自由」を封殺し(特定秘密保護法案による脅し)、みずから演出した東アジア領土問題の対外的葛藤をもとに平和憲法を解体させて軍事化への道を一気に走り出そうとしているだけに、この田中さんの文章にはリアリティがある。ことあるごとに自分を「最高責任者」として押し出していこうとする安倍の強引な政治姿勢は独裁者の強権的権力志向がむきだしと言わざるをえない。
 ヒトラーの政権奪取にひと役買ったカール・シュミットは、公法学者としてヴァイマール憲法の弱点をことさらに衝いてナチの進出のための露払いをしたが、その法理論的整備が終わったところからヒトラーは一気に独裁体制を築き上げて世界戦争まで突っ走った。ある意味でシュミットは危機の思想家として大きな構想力と影響力を示したが、一方で民主主義を根底から破壊する者として反面教師的な存在でもある。
 今日の日本の衆愚政治的状況に乗った安倍の極右的軍事化路線は、シュミットのような思想的バックボーンさえもたないままに、独善的な政策を次々と打ち出してきており、いまやヒトラー時代のドイツときわめて似た環境をつくりだしてきている。まさかと思うひとがいたら、当時のドイツでも知識人や政治家が手をこまねいているうちにどんどん外堀を埋められていってしまって、気がついたときにはもうどうにもならなくなっていたという歴史の教えを知らない者である。安倍と肝胆相照らす仲の麻生副首相がいみじくも露呈させたように、国民の知らぬまにナチまがいの独裁体制を築きあげたいというのが安倍政権の野望であることはいまや明らかである。従軍慰安婦問題もできればなかったことにしようとするいまの政権は、アウシュヴィッツさえなかったことにしようとした歴史修正主義者となんら変わるところがない史実の偽造の確信犯であり、この問題をめぐって世界じゅうから指弾されてもなんら反省する気もなく、東アジアとの亀裂を深めることでこの危機を乗り越えられるとでも思っているらしい。教科書問題にかんしても、例の〈自虐〉史観という勝手な論理で改竄を企み教育現場の荒廃を生み出そうとしている。まったく狂気の沙汰である。
 わたしたちがこの政治危機に感度を失なっているようだと、丸山眞男がかつて警告したように、どんな抵抗もすることなくただ時流に流されるたけの〈不作為の責任〉(「現代における態度決定」『現代政治の思想と行動』)という罪を現代でも演じてしまうことになりかねない。危機はすぐ鼻先にきているのだ。
《ヘーゲルはどこかでのべている、すべての世界史的な大事件や大人物はいわば二度あらわれるものだ、と。一度目は悲劇として、二度目は茶番【ファルス】として、と、かれはつけくわえるのをわすれたのだ》とマルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』の冒頭に書いている一節はよく知られている。ここでわれわれはあらためて問わなければならない。いまこの時代にヒトラーの猿真似をして民主主義を踏みにじり独裁者気取りで世界平和にやみくもに挑戦しようとする安倍は二度目のファルスの大根役者なのか、それともこの狂気に亀のように首をすくめてやりすごそうとする日本の国民がまたしても演じかねない〈不作為の責任〉こそがこのファルスの主役なのか、と。(2014/3/5)

(この文章は「未来」2014年4月号に連載「出版文化再生12」としても掲載の予定です)

 先日、トーハン主催で元社長金田万寿人(かなだ・ますと)さんの「お別れの会」が催された。大勢のひとが次々と現われては去っていくというかたちのお別れ会で、とくに誰かが話をするというものでもなかったのはいくらか寂しい気もした。金田さんは取次人としても破格の人望を得ていたひとだっただけに、とりわけそう感じたのだろう。わたしは金田さんにはいろいろ親しくさせてもらったからひとしお感慨深いものがある。
 とりわけ社長になられて間もないころに、土曜は暇なので遊びに来てくれということで、午前中に社長室におうかがいし、お昼をごちそうになりながらいろいろ懸案の相談をさせてもらったことがある。ここではその内容についてはすべて書くことはできないけれども、とにかく「未来」でのわたしの連載[未来の窓]についてはいつも意見を言ってくれ、親身に未來社のことも力になってくれたひとである。
『出版文化再生――あらためて本の力を考える』の注で触れたことであるが、鈴木書店が倒産しそうになったときに、わたしが当時の鈴木書店幹部に頼まれてトーハンに買収を申し入れにいったことは忘れられない記憶のひとつである。社長になられて三か月ほどだったこともあり、当時トーハンは株式上場を考えていたから赤字会社をもつことはむずかしい事情があり、検討はしてくれたらしいが、実現しなかった。また日販が立ち上げたブッキングにたいしてデジタルパブリッシングサービスを立ち上げたときも、いろいろやむをえない力関係で立ち上げた会社をどうするべきか意見を言ってくれということで、率直に意見を言わせてもらったことがある。ブッキングはわたしの予想通り五年ぐらいで消滅したが、デジタルパブリッシングサービスがいまも健在であるのは、そのとき出版社はそんなに簡単にコンテンツを提供することはない、とわたしが断言したことにもとづいてトーハンが凸版とのツテを利用して出版社に働きかけたことが功を奏したのではないか、とわたしは思っている。
 いろいろな会で見かけると向こうから近づいてきて親しく話をしてくれたのは、わたしにとっては取次人でもほとんど金田さんぐらいしかいない。そうしたことを思い出すにつけ、金田さんに会う機会がなくなってしまったのは、ほんとうに残念である。
 金田さんとの出会いはわたしが未來社に入社してまだ日が浅いころで、親父の肝いりで未來社とトーハン幹部との会合が設けられ、未來社の注文制という枠組みのなかでどんなことが可能かという問題を論じ合う機会があった。そのときが初対面の金田さんはまだ仕入の係長だったが、そのときから急速に親しくさせてもらったのである。おそらく一九八〇年前後だったと思う。その後、何年かして人文会の研修旅行で山陰地方をいっしょに回ったことがあり、どこだか忘れたが「カナダ村」というところがあって、金田さんが自分の村だと言っておおいにはしゃいでいたことを思い出す。そこでさらに親しくなった。そのとき同行したのは日販の橋昌利さんで、こちらは剣道五段だが話のわかるひとだった。そういうひとたちも業界からいなくなってしまった。出版業界がとても元気な時代だったのだ。いまは金田さんへの深甚な感謝を捧げたい。(2014/2/14)
 前回のこのコラムで昨年末の東京外国語大学でのイベントについて触れたが、その二次会で沖縄の批評家仲里効さん、詩人の川満信一さんと、以前からあたためていた企画が再燃した。外大イベントのさいに配布された資料にもなぜか掲載されていた、一九八一年の「新沖縄文学」誌上で川満さんが提案した記念碑的な「琉球共和社会憲法C私(試)案」を軸に、その憲法プランの思想的射程を検証しようという企画だ。
 二、三年前に那覇の居酒屋で三人で企画会議をしたことがあって、仲里さんから提案された企画だったが、川満さんは「いまさら、あんなもの」といったていで、あまり乗り気ではなかった(ように見えた)。川満さん流の照れもあったのかもしれないといまになって思うが、このたびは時代状況もずいぶん変わってきており、特定秘密保護法案の国会強行採決や安倍首相の突然の靖国参拝、仲井眞県知事による裏切りというしかない辺野古への移転承認などいまの自民党の強権政治にたいして、もうやっていられない、といった雰囲気が沖縄でも高まってきている。昨年十月には「琉球民族独立総合研究学会」が創設され、独立問題をめぐって本格的な取組みも始まった。この一月には石破自民党幹事長が五〇〇億円の自派用支援金をちらつかせて辺野古をかかえる名護市の市長選に介入しようとしたが、名護市民の抵抗力の前に自民党はみじめに敗北した。四年前の名護市長選においても当時の民主党政権が内閣官房費を使って当時反対派だった自民党に金を流して移転反対派の稲嶺候補を陥落させようとしたが、僅差ではたせなかったことが問題になった。以前ならばこうした策動によって有利なはずの選挙も逆転されてしまうのが沖縄では常だったらしいが、そのときあたりから形勢がはっきり変わってきたようだ。今度の名護市長選では現職の稲嶺進氏が一九〇〇〇票、辺野古移転容認派の自民党推薦候補が一五〇〇〇票と前回より差が開いた。五〇〇億円のエサに飛びつこうとしなかった名護市民は確実に自民党的金権政治にたいして自分たちの生活権を選んだと言えるだろう。
 ところがこうした惨敗にもかかわらず、安倍首相は、ダブルスコアの敗戦を覚悟していたのに予想以上の善戦をしたという理由だけで、名護にも一定の支持者がいることに確信をもったと強弁する始末。まことに黒を白と言いくるめる自分勝手な解釈である。いまのところ自民党が優位に立っている議会だって、小選挙区制に依拠する小差勝ちを積み重ねた結果の圧勝にもとづくだけであって、国民の支持率は過半数にも満たない。同じ理屈を言うなら選挙に勝ったからといって相当な反対派がいることを認識しなければならないはずである。戦前の軍国日本のような体制を夢見る長州藩出自のDNAをもつ安倍は、この議会多数派の力学を利用して憲法第九条を廃棄するべく段階を追ってなし崩しに「自衛」という名の軍国化への道を固めようとしている。まずそのまえに憲法改正のための国民投票にもっていくために、国会での三分の二以上の賛成が必要という憲法第九六条を賛成半数以上ですむようにと画策している。また特定秘密保護法案は戦前の治安維持法の再現をめざしたものであり、この道程の第一歩にすぎない。このままでは内閣批判などもその取締り対象のひとつになって、国民はなにも批判できなくなっていくのは目に見えている。
 こうした安倍政権の野望をどうしたらいまのうちに粉砕することができるのか。残念ながら対抗しうる野党の不在がこうした一党独裁のやりたい放題、言いたい放題を助長しているのは認めざるをえないが、とにかく可能なところから反撃していかなければならない。そのひとつの可能性が三三年まえに発表されたこの「琉球共和社会憲法私案」を再検討することなのである。カントの永遠平和論にも通ずる驚くべきユートピア的、絶対平和主義的な憲法私案が現実的な実現可能性に乏しい側面があるにしても、その究極の理念までも疑ってはならない。
 以下にその全五六条から成る憲法条項の際立ったポイントだけでも確認しておこう。その「前文」にはまずこうある。
《九死に一生を得て廃墟に立ったとき、われわれは戦争が国内の民を殺りくするからくりであることを知らされた。だが、米軍はその廃墟にまたしても巨大な軍事基地をつくった。われわれは非武装の抵抗を続け、そして、ひとしく国民的反省に立って「戦争放棄」「非戦、非軍備」を冒頭に掲げた「日本国憲法」と、それを遵守する国民に連帯を求め、最後の期待をかけた。結果は無残な裏切りとなって返ってきた。日本国民の反省はあまりにも底浅く淡雪となって消えた。われわれはもうホトホトに愛想がつきた。/好戦国日本よ、好戦的日本国民者と権力者共よ、好むところの道を行くがよい。もはやわれわれは人類廃滅への無理心中の道行きをこれ以上共にはできない。》
 ここにはすでに今日の沖縄の現状にそっくりそのまま通底する認識があることがすぐにも見てとれるだろう。一九七二年の「日本復帰」後十年足らずで書かれたこの「反復帰論」の論客の眼差しは、日本という幻想にからめとられることなく、今日の沖縄の姿を見抜いていたかのようでさえある。
 その第一条には「人類発生史以来の権力集中機能による一切の悪業の根拠を止揚し、ここに国家を廃絶することを高らかに宣言する」とあり、第二条には「軍隊、警察、固定的な国家的管理機関、官僚体制、司法機関など権力を集中する組織体制は撤廃し、これをつくらない」とある。また第十三条には不戦条項として「武力その他の手段をもって侵略行為がなされた場合でも、武力をもって対抗し、解決をはかってはならない」とある。こうした絶対平和理念を凡庸な権力主義者は嘲笑しようとするだろうが、武力抗争とは武力で対抗しようとするかぎり終りなき抗争にほかならないことが好戦主義者には見えていないだけなのである。沖縄が軍事的要衝であるよりも東アジアにおける絶対平和の要石になるための社会構想がここでは切実に問われているのである。
 名古屋のちくさ正文館の古田一晴が『名古屋とちくさ正文館』(論創社)というインタビュー本(インタビュアー=小田光雄)を出した。送ってもらったまま時間がなくてすこし間があいてしまったが、一気に読んでいろいろ参考になることも考えさせられることも多かった。なによりも古田は書店の将来にまだ希望をもっているし、出版界のさまざまな問題や対案にたいして妥協しない。これまでの書店人としての経験をさらにいっそう磨きをかけることで生き延びることは可能だとかたく信じている。その姿勢がいい。頼もしい。
 古田の書店人になるいきさつはこの本でくわしく知った。演劇の演出などをやっていることは知っていたが、映画や詩や芸術についてこれほど深くかかわっていることまでは知らなかった。わたしがよく知っている北川透とその「あんかるわ」をはじめ、ウニタの竹内真一や、名古屋書店人グループの集まりやその中心にいた筑摩書房の故田中達治のことなどいろいろ出てきて、なつかしいと同時に、「名古屋文化圏」の特殊な成り立ちをあらためて認識した。人文会や歴史書懇話会とのブックフェアの試みなど、仕掛け人としての古田の人脈と力量がよく語られている。
 ちくさ正文館という人文書に理解のある稀な書店(とそのオーナー)が存在していたからこそ古田の存在がより光り輝いたという側面があったにせよ、書店の棚作りにこれほどまでの情熱と配慮をおこなってきた古田の心意気がなければ、この出版不況の時代を突破することはむずかしかっただろう。ちくさ正文館がいまとなっては中規模クラスのスペースの店になったことを受けて、「セレクトショップ」としてみずからを位置づけることができたのも、古田の棚作りの見識があったればこそであろう。古田はこんなことを言っている。
《書店に長くいると、新刊の鮮度の重要性が身に沁みている。書店の最大の楽しみは新刊の箱を開けるときだとよくいうけれど、それは読者もそうであって、新刊との出会いをもとめて書店にくるわけです。またそうであるからこそ書店が成立している。(中略)もちろん既刊本がすべて駄目だといっているのではなく、しばらく前の本でも丹念に拾い、新刊と同様に売る試みはしている。実際に棚に置くことによって、ちがう輝きを見せる本も多くあるわけだから。》(135ページ)
 そうか、新刊の箱を開くときに喜びを感じてくれるのがこのひとなんだ。そして関連書としての既刊本にも目を向けてくれる。いまはそういう書店人がどれくらいいるだろうかと思うとすこし寂しいが、こういう書店人がいるからこそなかなか売れないけれどいい人文書を出すことがまだ希望となることができるのだ。
 こういう古田の方法論からすれば、インタビュアーが問いかける時限再販論の可能性などは昨今の不況にたいする彌縫策でしかないのは当然である。古田はこう言いきっている。
《出版社は時限再販にして正味を下げれば、書店の利益率はそれで上がるから、現在の状態からは前進するし、書店にとってもメリットがあると勝手に考えているようだけど、......アリバイ工作的な時限再販論はむしろ書店側にとって迷惑だと認識したほうがいい。そのための労力を考えれば、少しばかり利幅がとれたとしても、労力と手間暇がかかるだけで何のメリットもない。》(137-138ページ)
 古田はまた「本屋大賞」のような書店人が選んで全国一律で本を売る方式にも批判的である。書店人がみずからのかかわる書店立地や環境などを考慮することなく、日々の棚作りの努力を怠ったままで安易に本を選んで売ろうとする姿勢はおかしい、と。古田は別のインタビューに答えて棚作りについてこう言う――「僕は品揃えや、この本の横にこれを......といった並べ方など、どの棚も印象づけできるように仕掛けをしています。それが毎日の仕事です。店頭の日常こそが、ライブみたいなものですよ」(154ページ)と。
 ひさしぶりに名古屋を訪ねて古田と本の話をしたくなった。
 暮れも押し詰まった昨年12月21日(土)、東京外国語大学での「ラウンドテーブル 自発的隷従を撃つ」に参加してきた。主催者の西谷修さんから連絡を受けていたことと、沖縄から批評家の仲里効さん、詩人の川満信一さんがパネラーとして参加するというので、おおいに期待して出かけたのだった。
 このシンポジウムは現代を深く考えさせ行動を促す刺戟に充ちたもので、終了後の二次会も稔りあるものだったが、議題となったエティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(1530-1563)の『自発的隷従論』(ちくま学芸文庫)が短い論説とはいえ非常におもしろく、かつ今日的にタイムリーな古典でもあった。モンテーニュの年若き無二の友人としてつとに知られていたラ・ボエシのこの若書きの書物はなんと16歳か18歳で書かれたもので、当時から危険な書物として警戒されており周囲の者たちからは死後刊行にあたってもいろいろと配慮がなされたという曰くつきのものである。それだけ16世紀当時の王政や絶対主義権力者にとっては恐るべき起爆力を秘めたものであって、その後この書物が著者の意向を離れて教会や革命派によって政治的に利用されたりしたのも無理もない。
 ラ・ボエシ自身はボルドーの司法官として短い一生を過ごし、かならずしも当時のフランス絶対王政にたいして批判的ではなく(むしろ協調的だった)、『自発的隷従論』はそうした身近な現実への具体的批判として書かれたというよりも、ひとりの権力者が存在するところにはかならず多数の隷従者が存在し、絶対者の圧政はこれら隷従する多数者によって力を与えられ、結果として支えられているという支配の構造を、当時としてもきわめて斬新な視点から解明したのである。ラ・ボエシの主張はたとえば次の一節に要約されるのではないか。
《このただひとりの圧政者には、立ち向かう必要はなく、うち負かす必要もない。国民が隷従に合意しないかぎり、その者はみずから破滅するのだ。なにかを奪う必要などない、ただなにも与えなければよい。国民が自分たちのためになにかをなすという手間も不要だ。ただ自分のためにならないことをしないだけでよいのだ。(中略)彼らは隷従をやめるだけで解放されるはずだ。みずから隷従し喉を抉らせているのも、隷従か自由かを選択する権利をもちながら、自由を放棄してあえて軛につながれているのも、みずからの悲惨な境遇を受けいれるどころか、進んでそれを求めているのも、みな民衆自身なのである。》(本書18ページ)
 ここにラ・ボエシの自発的隷従論の骨子があると言っていい。そしてこの視点は王政ならざる現代のグローバル化された世界支配の構造とはたしかにそのままあてはまるわけではないにせよ、構造的にはそっくりの心理的機制が働いている。この隷従論が自発性というものと結びついているところにラ・ボエシの現代性がある。この論をはやくからみずからのブログでとりあげていた西谷修は本書の解説で、歴代の日本政府=自民党が戦後のアメリカへの一方的な隷従をどこの国よりも自発的におこなってきた問題と重ねあわせてみているが、たしかにそう言ってみたくなるほど、とりわけいまの安倍晋三政権の政治的頽廃とアメリカへの隷属ぶりは度を越している。わたしに言わせれば、安倍政権を支持する日本人すべても同じである。西谷修が『自発的隷従論』を軸に据えて、ファシズム前夜の危機状況を読み取るべくシンポジウムを開催しようとしたゆえんである。
 この文庫本に併録されたシモーヌ・ヴェイユの「服従と自由についての考察」にはラ・ボエシの隷従論を踏まえてこんなふうに書かれている。
《多数者が――苦痛や死を強制されてさえも――服従し、少数者が支配するのである以上、「数は力だ」というのは真実ではない。ちょっと想像すればわかるように、数は弱さなのである。弱さは、飢える側、疲弊する側、懇願する側、震える側にあるのであって、幸福に生きる側、恩を授ける側、恐れさせる側にはない。民衆は、多数であるにもかかわらず従うのではなく、多数であるがゆえに従うのである。》(本書182ページ)
 つまりは隷従を習性としてしまう者たちに決定的に欠けているものは人間の本性としての〈自由〉への希求であり、いわば〈自由を命ぜられてある者〉としての人間的自覚の欠如である。民衆とは圧倒的にそうしたメンタリティに習性づけられている者のことである。「社会秩序というものは、どんなものでも、いかに必要であっても、本質的に悪である」(本書188ページ)とまで言ってのけるヴェイユにとっては「社会の力は、欺瞞なしには機能しえない。だから、人間の生におけるもっとも高貴なものすべて、すなわち、あらゆる思考の働きや、あらゆる愛の働きは、秩序にとって有害なものとなる。......思考がたえず『この世のものではない』価値の序列を構築するかぎりにおいて、それは社会を統治している力の敵となる」(本書187ページ)という結論は必然的である。
 第二次世界大戦末期の1944年に書かれたアンドレ・ブルトンの『Arcane 17 (秘法十七)』という詩的散文がある。その末尾に近い部分でブルトンはこう書く。
《人間の自由への渇望は、みずからをたえず再創造する力として維持されなければならない。自由が状態としてではなく、たえざる前進を引き起こす_¨生きた力¨_として想い描かれねばならないのは、そのためである。さらに、それは自由が、継続的にそしてもっとも巧妙なやりかたでみずからを再創造してくる強制や隷従に対立しつづけることができるただひとつの方法なのである。》(10/18叢書版p. 115)
 ここでブルトンは名こそ挙げていないが、自由に自覚的であるとは、しつこく頭をもたげてくる強制や隷従への圧力を唯一しりぞける力であることをラ・ボエシに代わって述べているように見える。ヴェイユとも共鳴しつつその反秩序性とはちがう意味で、「愛と詩と芸術」の力を鼓吹するブルトンの詩人的感性は隷従へと陥れようとする惰性的ヴェクトルを根底から突き崩す対抗的な力学を提示している。

*本論とは別に「西谷の本音でトーク」ブログで「〈自発的隷従〉の網にどういう風穴を空けるのか」というレポートと「思考のポイエーシス」ブログで「自発的隷従から自由になること」という一文をわたしは書いている。ご覧いただければさいわいである。(http://poiesis1990.cocolog-nifty.com/nishitani_talk/およびhttp://poiesis1990.cocolog-nifty.com/blog/)(2014/1/7)

(この文章は改稿のうえ「未来」2014年2月号に連載「出版文化再生10」として掲載します)