東大闘争が収束した時期をいつと見るかはそのひとの解釈とか立場によってさまざまでありうる。常識的に言えば、一九六九年一月十八日、十九日の機動隊導入による安田講堂の封鎖解除とするのがそのひとつの見方であり、その後の裁判闘争などを考えれば、もっとあとということになる。
一九六八年にその渦中に入学したひとりであるわたし個人などからすると、いろいろな傷みの記憶やら屈折抜きでは語れないところもあるが、それでもいちばんペエペエの世代だったこともあってわけがわからないままに通過してしまった事態も多く、上の世代にくらべると浅い体験でしかなかったにちがいない。その後もさまざまな体験記などが刊行されてそれぞれの〈東大闘争〉が証言されたり、あるいはそれとして論述されなくとも書き手各自に内面化されたそれがおのずから浮上してくる痕跡が散見されることはいまでもしばしばある。
とはいえ、昨今の政治の右傾化、反動化にともなって自己利益の追求のみを是とする新自由主義と経済合理主義が日本社会を覆い尽くそうとする時代の潮流のなかで、こうした抵抗の痕跡も徐々に風化しつつあるという厳然たる事実も一方に存在し、東大闘争が社会に突きつけた問題提起はいまや歴史の彼方に没し去ろうとしているかのように見える。
ところが、こうした救いがたい退嬰的な時代の流れに抗するような本が現われた。折原浩・熊本一規・三宅弘・清水靖久共著『東大闘争と原発事故――廃墟からの問い』(緑風出版)がそれである。一九六八年~一九六九年をピークとする東大闘争のなかで造反教官として勇名を馳せたウェーバー学者の折原浩さんを中心に、折原さんの批判精神に強い影響を受けた若い世代の三人(といってもすでにいずれも六〇歳前後になっている)が、それぞれの視点からみずからの東大闘争へのかかわりかたとその帰結としてのその後の社会活動(原子力の情報公開法制定運動、市民運動など)をつぶさに記述したものである。
折原浩さんを除くこれらの著者たちは、わたしと同学年の熊本一規氏を別にすると、東大闘争以後に東大に入学し、したがって東大闘争をリアルタイムで体験したことはないが、授業再開によっていちおうの収束をみた東大駒場キャンパスで頑強に授業拒否をつづけていた折原さんの対案としての公開自主講座に参加するなかから、_¨事後的に¨_東大闘争の問題提起をみずからの生きる課題として引き受け直してきたひとたちである。全共闘運動を踏まえ、権力的な学生処分、時の権力への迎合的態度、知的権力者としてのみずからの立場への保身的対応に終始する大学当局や教官たちのなかに知の廃墟を認めた折原さんをはじめとする造反教官たちが捨て身で提起した「帝大解体」と「自己否定」の論理(権力者として要請される自己を否定し、非権力的存在として自己を再確立すること)はいったん消えたように見えるが、その精神はそれぞれの運動者のなかに別のかたちで生きつづけている。それが二〇一一年三月の東日本大震災とそれにつづく原発事故によって露呈した原発関係者における新たな廃墟を見出すにつけ、この間の四〇年に及ぶ時間の再定義を著者たちに突きつけたのだと言っていい。そこに東大闘争と今回の原発事故が結びつく問題の本質があるのだ。
折原浩さんの大学批判は、根底的に批判すべきものを批判せず矛盾や欠陥を内部に温存させる日本的共同体の悪しき体質に内部告発的に向けられたものであり、それは今日の原発行政にも伏在する同型同質の問題として提示されている。「第1章 授業拒否とその前後――東大闘争へのかかわり」のなかで折原さんは書いている。
《(大学は、)批判的理性の適用を手控えられ、「聖域」として温存されていた。「研究の自由」の主唱者が、自分自身とその足元は「自由に研究」しなかった。社会学は、安全地帯に身を置く気楽な他者批判であった。ところがいま、そうした「殻」を突き破り、研究活動とその拠点を「社会学する」対象に据え、社会学の地平を飛躍的に拡大すると同時に、そうした自己批判にもとづく自己更新機能を、大学に「ビルト・イン」していく可能性が開けてきた。》(五五ページ)
この、身のまわりすべてを「社会学する」姿勢が、ウェーバー学者としての「マージナル・マン(境界人)」折原さんを決定的に造反教官に仕立てていくライトモチーフになっていった。そして駒場の教養学部教授会や大学当局への厳しい批判がつづいていくのだが、そこでの細かい事実関係は折原さんの文章に譲る。いずれにしてもわたしのような中途半端な学生の情報把握ではとうてい及びのつかない葛藤や事態の進展がこの時代にあったことをいまさらながらに知ることができて、折原さんの活動の一貫性と粘着性には驚かざるをえない。ずっと後年になって親しくつきあわせていただくことになる折原さんの柔らかい物腰と語り口のなかにもおのずから透けて見える情念の激しさと一徹さは、すでにこの時代から抜き差しならないほど強く折原さんの思想と行動にビルトインされていたのである。ここから今日の原発関係者における知的頽廃への批判的論点は遠く見晴るかされていたのではないだろうか。折原さんはヴェーバーの合理化論に関連させてこう書いている。
《「合理化」は「専門化」の進展をともなわざるをえないが、そうなると、「非専門家」の大衆は、自然科学の専門技術的応用の所産は日用材として享受しながらも、応用の基礎をなす合理的原理からは、ますます疎隔され、自分では技術を制御できず、「専門家」に頼らざるをえなくなる。とすると、大学で養成される「専門家」ないし「テクノクラート」が、「『専門バカ』であると同時に『バカ専門』でもある」となったら、どうやって技術を制御するのか。》(七一ページ、折原さん特有の傍点多用はここでは省略させてもらった)
言うまでもなく、ここでの「専門バカ」とは原発利権にむらがる「原子力村」の住人たちを指している。
一九六八年にその渦中に入学したひとりであるわたし個人などからすると、いろいろな傷みの記憶やら屈折抜きでは語れないところもあるが、それでもいちばんペエペエの世代だったこともあってわけがわからないままに通過してしまった事態も多く、上の世代にくらべると浅い体験でしかなかったにちがいない。その後もさまざまな体験記などが刊行されてそれぞれの〈東大闘争〉が証言されたり、あるいはそれとして論述されなくとも書き手各自に内面化されたそれがおのずから浮上してくる痕跡が散見されることはいまでもしばしばある。
とはいえ、昨今の政治の右傾化、反動化にともなって自己利益の追求のみを是とする新自由主義と経済合理主義が日本社会を覆い尽くそうとする時代の潮流のなかで、こうした抵抗の痕跡も徐々に風化しつつあるという厳然たる事実も一方に存在し、東大闘争が社会に突きつけた問題提起はいまや歴史の彼方に没し去ろうとしているかのように見える。
ところが、こうした救いがたい退嬰的な時代の流れに抗するような本が現われた。折原浩・熊本一規・三宅弘・清水靖久共著『東大闘争と原発事故――廃墟からの問い』(緑風出版)がそれである。一九六八年~一九六九年をピークとする東大闘争のなかで造反教官として勇名を馳せたウェーバー学者の折原浩さんを中心に、折原さんの批判精神に強い影響を受けた若い世代の三人(といってもすでにいずれも六〇歳前後になっている)が、それぞれの視点からみずからの東大闘争へのかかわりかたとその帰結としてのその後の社会活動(原子力の情報公開法制定運動、市民運動など)をつぶさに記述したものである。
折原浩さんを除くこれらの著者たちは、わたしと同学年の熊本一規氏を別にすると、東大闘争以後に東大に入学し、したがって東大闘争をリアルタイムで体験したことはないが、授業再開によっていちおうの収束をみた東大駒場キャンパスで頑強に授業拒否をつづけていた折原さんの対案としての公開自主講座に参加するなかから、_¨事後的に¨_東大闘争の問題提起をみずからの生きる課題として引き受け直してきたひとたちである。全共闘運動を踏まえ、権力的な学生処分、時の権力への迎合的態度、知的権力者としてのみずからの立場への保身的対応に終始する大学当局や教官たちのなかに知の廃墟を認めた折原さんをはじめとする造反教官たちが捨て身で提起した「帝大解体」と「自己否定」の論理(権力者として要請される自己を否定し、非権力的存在として自己を再確立すること)はいったん消えたように見えるが、その精神はそれぞれの運動者のなかに別のかたちで生きつづけている。それが二〇一一年三月の東日本大震災とそれにつづく原発事故によって露呈した原発関係者における新たな廃墟を見出すにつけ、この間の四〇年に及ぶ時間の再定義を著者たちに突きつけたのだと言っていい。そこに東大闘争と今回の原発事故が結びつく問題の本質があるのだ。
折原浩さんの大学批判は、根底的に批判すべきものを批判せず矛盾や欠陥を内部に温存させる日本的共同体の悪しき体質に内部告発的に向けられたものであり、それは今日の原発行政にも伏在する同型同質の問題として提示されている。「第1章 授業拒否とその前後――東大闘争へのかかわり」のなかで折原さんは書いている。
《(大学は、)批判的理性の適用を手控えられ、「聖域」として温存されていた。「研究の自由」の主唱者が、自分自身とその足元は「自由に研究」しなかった。社会学は、安全地帯に身を置く気楽な他者批判であった。ところがいま、そうした「殻」を突き破り、研究活動とその拠点を「社会学する」対象に据え、社会学の地平を飛躍的に拡大すると同時に、そうした自己批判にもとづく自己更新機能を、大学に「ビルト・イン」していく可能性が開けてきた。》(五五ページ)
この、身のまわりすべてを「社会学する」姿勢が、ウェーバー学者としての「マージナル・マン(境界人)」折原さんを決定的に造反教官に仕立てていくライトモチーフになっていった。そして駒場の教養学部教授会や大学当局への厳しい批判がつづいていくのだが、そこでの細かい事実関係は折原さんの文章に譲る。いずれにしてもわたしのような中途半端な学生の情報把握ではとうてい及びのつかない葛藤や事態の進展がこの時代にあったことをいまさらながらに知ることができて、折原さんの活動の一貫性と粘着性には驚かざるをえない。ずっと後年になって親しくつきあわせていただくことになる折原さんの柔らかい物腰と語り口のなかにもおのずから透けて見える情念の激しさと一徹さは、すでにこの時代から抜き差しならないほど強く折原さんの思想と行動にビルトインされていたのである。ここから今日の原発関係者における知的頽廃への批判的論点は遠く見晴るかされていたのではないだろうか。折原さんはヴェーバーの合理化論に関連させてこう書いている。
《「合理化」は「専門化」の進展をともなわざるをえないが、そうなると、「非専門家」の大衆は、自然科学の専門技術的応用の所産は日用材として享受しながらも、応用の基礎をなす合理的原理からは、ますます疎隔され、自分では技術を制御できず、「専門家」に頼らざるをえなくなる。とすると、大学で養成される「専門家」ないし「テクノクラート」が、「『専門バカ』であると同時に『バカ専門』でもある」となったら、どうやって技術を制御するのか。》(七一ページ、折原さん特有の傍点多用はここでは省略させてもらった)
言うまでもなく、ここでの「専門バカ」とは原発利権にむらがる「原子力村」の住人たちを指している。