知念ウシさんの『シランフーナー(知らんふり)の暴力――知念ウシ政治発言集』がようやく刊行される運びになった。そもそもこの本は昨年の沖縄「本土復帰」四〇周年にあわせて刊行されるはずであったが、当初の構想からいろいろ変更や軌道修正があり、ウシさんも「あとがき」で明らかにしているように、初めてのエッセイ集で執筆時期が二十年にわたるため、それぞれの執筆事情や状況への補注作業等が必要になるということもあって、なかなかゲラを確定できない事態に立ちいたっていた。その間に垂直離着陸輸送機オスプレイの沖縄への配備や墜落事故など、沖縄をめぐる状況も予断を許さない局面がつづいているし、ウシさんの活動も、「未来」でのリレー連載《沖縄からの報告》でも見られるように、休むことなく精力的につづけられてきた。一方で東アジアでの軍事的拡張をめざす安倍晋三政権には沖縄への基地押しつけ政策を変更しようとする姿勢はさらさらなく、むしろ沖縄との関係は悪化の一途をたどっていると言わざるをえない。こういうときだからこそ、沖縄の声を「本土」(ヤマトゥ)に届かせる必然がますますあるのだ。なかでも知念ウシという存在はいまの沖縄の若いひとたちを代弁する強力な声のひとつであり、その政治的発言を集成した本書の刊行が待たれていた理由はそこにあるのである。
知念ウシさんにはすでに「未来」でのリレー連載をまとめた與儀秀武・後田多敦・桃原一彦さんとの共著『闘争する境界――復帰後世代の沖縄からの報告』二〇一二年、未來社刊)ほかに、『ウシがゆく――植民地主義を探検し、私をさがす旅』二〇一〇年、沖縄タイムス社刊)いう単行著書がある。「沖縄タイムス」紙に五年間連載した人気コラムをまとめたもので、刊行時にはわたしも那覇での出版記念会に参加したし、この本と出版記念会については「未来」での連載[未来の窓]でも書いたことがある。「知念ウシさんの仕事――無知という暴力への批判」「未来」二〇一〇年十二月号、のち『出版文化再生――あらためて本の力を考える』に収録)それだ。今回の『シランフーナー(知らんふり)の暴力』の原稿はそのとき以前から企画中であることがこの文面からもわかる。その文章の最後にわたしはこんなことを書いている。
「手元に預からせてもらっている企画用原稿は、学生時代からの若書きもふくまれているが、そこには沖縄のひとと風土を愛しつつ、基地のない沖縄をどうしたら実現できるのかを粘り強く探求し、これまでの沖縄人が達することができなかったラディカルな論点と大胆かつ戦闘的な主張に充ちている。ヤマトの人間のほんとうの沖縄にたいする無知、すなわち沖縄に全国の七五パーセントの米軍基地を集めさせていることによって享受している平和ボケからくる沖縄への無関心こそが、沖縄人にたいする暴力であり攻撃でさえある、ということを暴き出していく。この論点と立場をわたしは断固支持していくつもりである。」(『出版文化再生』四〇八頁) ここにもあるように、今回の『シランフーナー(知らんふり)の暴力』は最初、わたしの提案でウシさんの文章にあることばをとって『無知という暴力』になる予定だった。そのことはウシさんの「あとがき」にも書いてある。沖縄への基地の押しつけや歴史・文化にたいするヤマトンチュ(日本「本土」人)の根本的な無知が結果として沖縄への暴力につながっているという視点をふくませようとしたものだが、それよりむしろ、ヤマトンチュはじつは無知なのではなく、知っているのに知らないふりをしているのであって、もっとタチが悪いのだということをウシさんはこの書名にこめようというのである。わざわざウチナーグチ(沖縄語)で「シランフーナー=知らんふり」ということばを使っているのはそういう意図を明確にするためである。わたしも次第にこのウチナーグチのニュアンスがわかるようになってきた(と思っているだけかもしれないが)。
ひととひとの出会いは不思議なところがある。以前にも書いたことがあるが、知念ウシさんと初めて会ったのは、二〇一〇年一月二十三日である。なぜその日を特定できるかと言うと、その日はわたしが編集した仲里効写真家論集『フォトネシア――眼の回帰線・沖縄』の出版記念会が那覇でおこなわれた日であり、わたしはその日の二次会に飛び入り参加した、当時は沖縄地方区選出の民主党参議院議員だった喜納昌吉さんと意気投合してその後の語り下ろし本『沖縄の自己決定権』を刊行するきっかけになった日であり、またわたしの前に座っていたウシさんとそうした雰囲気のなかで最初の話をした日でもある。もっともそのときはウシさんも二次会からの参加で、喜納さんが紹介してくれただけでウシさんがそこで話していた内容が興味深かったので、それをPR誌「未来」で書いてもらえないかということを依頼してその日は終わったのだった。そのときの印象はどこかそっけなくよくいる「ツッパリ姉さん」という感じだったし、東京に戻ってからかけた電話でも最初はギクシャクしたものだった。東京の出版社というのを警戒していたのであろうか。それがどういうわけか、(きっと誰かの口入れではないかと想像しているが)急に話が通じるようになって、前記リレー連載《沖縄からの報告》の第一回目が書かれたのだったし、『闘争する境界』の刊行にも、さらにその後のいまもつづくリレー連載にも結びついたのである。
こうしたつきあいは沖縄に行くたびにいまもさまざまな場所(とくに出版記念会)でつづいているが、今回は、ウシさんが「あとがき」に(悪いジョークだと思うが)書いてくれたように、「閻魔大王」(なぜかわたしが「ときには閻魔大王のように怒り、うろうろする私を厳しく叱咤した」)として十月の沖縄での出版記念会に出席するつもりである。また十一月には東京でも出版記念会をすることになっているので、いろいろなひとに呼びかけて楽しくまた有意義な機会をもちたいと考えているところである。