一昨年(二〇一一年)十一月に小社は創立六〇周年を迎えた。そのさいに社史『ある軌跡』60年版を作成するとともに、それまで十五年(一七六回)にわたってわたしが小誌「未来」に書きつづけてきたコラム[未来の窓]を『出版文化再生――あらためて本の力を考える』として再構成し、刊行した。社史とともにひろく寄贈させていただき、さいわい非常に多くの方から貴重なご意見、ご賛同のことばをいただくことができ、おおいに励まされた。それとともにかなりのひとから[未来の窓]の休載を惜しみ連載をつづけるよう慫慂していただくことになり、うれしくもあり、やや困惑するところもあった。自分としてはいちおうひと区切りつけたつもりであったし、そんなに手応えを感じなくなりはじめていたからでもあったからだが、どうもそういうわけでもなかったらしい。とはいえ、出版人として語ることにそんなに興味をもてなくなりつつある自分がいたことも事実である。いちどこのかたちで書くのをやめようとしたからには、どうしたら再開することが可能か形式を模索していくことになった。
そうしたなかで、やはりこの国で出版事業にかかわりつづけていると、誰がどう思おうと自分が言うべきことはやはり言っておくべきだと思うことが多くなり、そのためにはあまり枠にとらわれずに書きたいことがあればすぐに書けるブログ形式が自分にとって都合がいいことがわかった。あまり肩肘はらずに、所定の枚数や締切もなく、必要だと思ったことをそのつど書けるこの形式は意外と自分にあっているのではないかと思えることもあり、強制もないことがいくらか自由度を獲得できることになって、この一年ほどのあいだに六〇本ほどのブログを書いた。これをニフティのココログページ「出版文化再生」ブログ(http://poiesis1990.cocolog-nifty.com/shuppan_bunka_saisei/)と未來社ホームページで立ち上げた「出版文化再生」ブログ(http://www.miraisha.co.jp/shuppan_bunka_saisei/)のページに掲載してみたところ、徐々にフォローしてくれるひとが出てきて、これまでにない手応えを実感できるようになった。そうしているあいだに、このなかのアクセスの多かったいくつかのブログを二度にわたって小誌で抄録することもあって、なんとなく機が熟してきたのである。
そんなわけで小誌であらためて出版にかんするコラムの連載を再開するにあたって考えたのは、『出版文化再生』刊行を準備している渦中で気づかされたことだが、現在のような政治状況、文化状況、出版環境のなかでは、わたしが考えてきたような専門書、人文書をあえて刊行していくことは、ひとつの文化闘争のありかたなのだという発見であり、そのことに自覚的になることであった。ひとりよがりと言われることを覚悟のうえで、この反動の時代に逆らっていくことが、出版文化の再生のためにどうしても避けては通れないことだと観念したということである。『出版文化再生』のオビに大書したように、「出版とは闘争である」のだ。考えてみれば、これまでの[未来の窓]執筆においても、誰に頼まれもしないのに、しばしばひとり義憤を感じていろいろ書いてきたことをいまさらのように思い出す。しかしそれはあくまでもなりゆき上そうなったのであって、今後はこのコラムを書くにあたって、この闘争精神のもとに出版文化の再生のためにささやかながらもういちど出版の問題にかんして発言していくことにしたのである。大げさに言えば、これだけの決心をしなければ一出版人としてのわたしがこの場にかかわる意味はないのである。それがこのコラムを「出版文化再生」と名づけた理由である。
さきほど先行する「出版文化再生」ブログでのさまざまな反響について触れたが、それでもこれまで[未来の窓]を読んでいてくれた(かもしれない)読者の多くは、活字派の読者が多いだろうから、このブログをネットでわざわざ探して読んでくれることはないだろう。たとえブログをチェックするようなひとでも、印刷してからでないときちんと読むことはできないと公言するひともいるぐらいで、そういうひとのためにも活字化しておくべきだと考えたのである。
とはいうものの、このページで書こうとするものは、すでに先行して書いてきた「出版文化再生」ブログの一部として書くことになるだろうから、できればここで活字化するもの以外の、先行しあるいは今後も継続されるブログとあわせてお読みいただければさいわいである。もちろん本欄の原稿も、以前の[未来の窓]がそうだったように、完成した時点でブログページに掲載するつもりである。したがって活字になる以前に中身を読んでもらうこともできる。
その意味では、このコラムもこれまでのブログの延長で書きすすめることができそうな気になってきた。ちがうのは、決まった文字数で書かなければならないことと、活字メディアに掲載されることだけである。とくに後者がどのような意味をもつようになるかは今後の問題として関心がある。というのは、ブログで書くものは、いかに専門的な内容であったとしても、それが私家版としてプリントされて読まれ保存されるような場合を除けば、基本的に〈情報〉として処理されてしまうのを覚悟しなければならないのに比べて、本や雑誌に活字化されるということはたんなる情報以上の価値をもちうるチャンスがあるからである。そのかぎりにおいて、いかに人気のあるブログであろうと、それは活字化以前の情報にすぎないのである。
本(や雑誌)というパッケージ形態がネット上の情報を凌駕することができるのは、それが情報以上のものとして初めて読まれうるからだというその優位性はいまでも変わらないはずである。すくなくともわたしはそう信じている。わたしは「思考のポイエーシス」「ファイル編集手順マニュアル」など数本のブログを並行的に書いているが、これらも活字本としての最終形態をめざしていることは言うまでもない。(2013/4/3)
(この文章は「未来」2013年5月号に連載「出版文化再生1」として掲載)