昨年暮れに申請が締め切られた経済産業省推進の「コンテンツ緊急電子化事業」も最終的にはどうやら予定していた予算を消化したらしい。出版界の電子化事業を国がバックアップするという触れ込みで始められた事業だが、出版界の当初の反応の悪さもあってかなり難航し、途中で何度も条件緩和などがなされて、なんとか目標を達成することができたようである。
とにかく世は挙げて「電子書籍」化へむけて動こうとしている。これには一九九六年をピークとして下降をつづけてきている出版界の売上げ減少を食い止めようとする業界努力と言えなくもないが、はたして電子書籍というものがほんとうに出版界にとって、あるいは出版文化にとって起死回生策になるのだろうか。
ひとくちに「電子書籍」といってもさまざまな形態があることをひとはあまり知らないのではないか。テレビなどが喧伝するように、アマゾンのキンドルのような電子書籍用リーダーを使って読書をすることがこれからの読書モデルと思わされている。しかし「電子書籍」と呼ばれるもののなかには、紀伊國屋書店やジャパンナレッジのように、既刊本のページを利用者に閲覧できるようにしたものもある。
今後、電子書籍がさまざまなかたちで開発され商品化されていくことは間違いないが、アメリカのように、電子書籍が紙媒体の書籍(従来の書籍)を売上げにおいて上回ってしまうというような事態は、日本やヨーロッパのように歴史が古く書籍文化の伝統の厚みがある国では、そう簡単に起こらないのではないか。これには国土の広さ、書店の身近さ、言語表記の問題(なんといっても英語は文字数が少ない)といった点にも原因がある。
日本の現状で言えば、これまで積極的に電子書籍化がすすめられてきたのは、マンガ、コミック、ベストセラー小説といったたぐいの一般書である。これらは何度も読み返したり立ち戻ったりして読むものではなく、一方向的に進められていく「読書」であり、総じて一過的なものである。それにたいして専門書出版社があまり電子書籍に乗り気でなかったのは、もともとビジネスモデルとして想定しにくかったからでもあるが、それ以上にこうしたリーダー上で読むにはむずかしい種類のコンテンツが専門書だからである。
書物とはたんなる情報のパッケージではなく、それ自体がある種の固有価値としてのモノであり、読者がそれらを熟読することによって無限の可能性にみずからがひらかれていくものである。本のかたち、活字やレイアウトの美しさ、装幀などによって一冊の書物としての存在感をもち、それが読書体験をつうじて人間の脳にしっかり定着される。モニタ上の電子情報にくらべて書物を通じての読書の記憶は脳のより深いところで定着すると言われている。こうした深い経験としての読書こそがこれまでの文化を創ってきたのであり、出版文化とはまさにそこにしか存在しない。本の内容をたんに情報としてしかとらえられなくなっている読者が増えているとしたら日本の将来は由々しきものとなろう。
電子書籍とはオリジナルの書物の二次的派生物として存在理由があるだろうが、オリジナルの書物不在のところからは新しい文化は生まれない。出版界が書物のオリジナル開発に力を入れなくなり、電子書籍化に血道をあげようとするなら、それは本末転倒の自滅行為となるだろう。
(この文章は「サンデー毎日」2月10日号に掲載された「『コピー』からは新しい文化は生まれない」の元原稿を転載したものです。内容的に本欄の「56 電子書籍はオリジナルをどこまで補完できるのか」と重なるところがあります。)