このところいろいろなひとと電子書籍について話をするたびにわたしが言うことはほとんどいつも同じである。今週には放送大学でのオンエアでこの話題についてもしゃべることになるだろうから、いちど整理しておく必要がある。
つまり、日本における電子書籍は今後どうなるのか、というお定まりの話題についてのわたしの考えであるが、端的に言って、日本で電子書籍はこれまでよりかはいくらか広がりと深まりを見せるだろうが、巷間いわれているようなアメリカにおけるような急速な展開は起こりえない、というものである。それは出版文化の歴史の厚みがちがうとか、英語のような文字数の少ない言語と日本語のような多文字言語のちがいがあるのは言うまでもない。もちろん、経済産業省が推進している「コンテンツ緊急電子化事業」のような公的バックアップがあって、大出版資本がそれにあわせてコミックや漫画、小説のような一過的な商品価値の高いものを便乗的に電子化しようとする動きがあるにはあるが、それらは冊子本というかたちで恒久的に保存すべき種類のものとは言えないものが多く、いずれにせよこの時代潮流のなかではおのずからほかの形式(ここでは主として電子書籍)に移行していくのは必然だからである。それに諸外国で人気のある日本のアニメやコミックが版権上の問題もあって、大手出版社がこれまでの利権を守ろうとする立場から早めに電子書籍化して版権を囲い込もうとする強い動機づけがあるからである。
しかし現在の出版界を見てみると、これまでの通常ルートである出版社~取次~書店~読者という流れは、オンライン書店の出現以来、読者のオンライン注文というかたちで流通の中抜き現象が生じることによって書店現場を中心に弱体化を招いているし、それ以上に、携帯電話等の異常な発達によって些末な断片情報への関心の一面化と短絡化が起こり、人間の知への欲求が急速に矮小化されてきている結果を生じており、そのための書物離れが一段と加速化している現状はもはや誰も否定できなくなっている。このぶんでは、1996年のピーク時の2兆6900億円という業界売上げの数字がすでにいま現在で3割ダウンしているものが、早晩、ピーク時の半分以下になるだろうことは十分に予測できる。つまり何年かのちには業界は半減期を迎えるということである。これは悲観的な観測ではなく、峻厳な現実の観測結果である。
そこで何が問題なのか。出版界は娯楽的にも情報的にも消費されたところで役目を終える出版物のための物量的産業であることをやめ、数は少ないけれど必要な読者にとって固有な価値をもつ出版物(という文化)をいかに生き残らせることができるようにするかを考えていくべきだろうということである。そうした出版物の大部分は電子書籍化には本質的に馴染まない種類の出版物である。つまりその種の出版物の電子化はあくまでもオリジナルあってのコピー、二次的派生物にすぎないということであって、出版物をおしのけてひとり歩きできるものではないということだ。言い換えれば、出版物は出版物としての固有性を維持しうるものだけが存在しつづけるようになるのではないか。
そのとき、これまでの物量的流通を支えてきた取次を中心とする出版業界の流通構造はそのまま残ることは考えにくい。大幅な業務縮小を強いられる流通構造は、これまでの量指向から多様性という質指向に転換することは簡単でないからである。したがって取次はもちろん書店においても量から質(多様性)への大きな方針転換や決断が避けられないということになる。そしてこのことは出版社においても同様であり、たんなる合従連衡といった小手先の調整で片づく話ではない。業界再編という大問題がこれからの避けようもない課題なのである。
もうひとつ問題なのは、現在の電子書籍化への流れが徐々にではあるが実現するとしても、携帯電話で些末な断片化した情報の処理に明け暮れている若者が(若者だけじゃないところおそろしいことでもあるが)質量ともにより大きな文字の文化に近づいていくことができるだろうか、という心配である。この場合、そうした若者たちは書物という形態はもちろん、電子書籍にさえも近づくようなことはないのではないか。読書とは習慣づけが必要な行為であり、そのための修練の場として携帯ではまったく不十分だからである。さきほども述べたように、情報や娯楽中心の出版物は電子書籍化されることでその目的はほぼ再現可能になるので、携帯からもアクセスしやすいかもしれない。とはいえ、そこには必要な最小限の情報をピンポイントで獲得するだけでよしとする習性から、より総体的な情報を取得しようとする動機づけまでにはおおきな距離があるわけで、したがって電子書籍がその手の読者を(出版物に代わって)獲得できることで出版物の売上げ減少分を補填することができると考えることは大いなる幻想と言わなければならない。出版物を手に取る習慣のないところに、電子書籍の可能性も低いはずである。専門書系出版社が電子書籍に積極的でない理由のひとつはそこにある。書物の価値をどうしたら広く理解してもらえるようにするのかが、電子書籍に走ることよりもはるかに切実な課題となるべきである。
もしかしたらアナクロに見えるかもしれないこうしたことを考えながら上村忠男さんの『ヘテロトピア通信』を読んでいたら、上村さんが姜尚中との対談のなかで自分がめざすべき知識人のイメージをつぎのように提示しているのを見つけた。《権力という巨象にうるさくまとわりついて離れない虻のような存在としての知識人》《社会なり時代なりに大きな動きが生じたとき、その動きにアイロニカルな批判的懐疑の眼差しを向けることを忘れない知識人》(同書220ページ)と。上村さんはこの知識人像をサイード的知識人と呼んでいる。知識人であるかどうかはともかく、出版界の流れに棹さして電子書籍化への流れを批判しているわたしなどまさしく《権力という巨象にうるさくまとわりついて離れない虻のような存在》であり、《社会なり時代なりに大きな動きが生じたとき、その動きにアイロニカルな批判的懐疑の眼差しを向ける》のはわたしがおおいに心がけていることである。この懐疑精神と闘争心を失なわないようにしたい。(2012/9/16)
(この文章は「西谷の本音でトーク」で掲載した「電子書籍という幻想」と「虻のような存在としての懐疑精神」を大幅に推敲して転載したものです。)
つまり、日本における電子書籍は今後どうなるのか、というお定まりの話題についてのわたしの考えであるが、端的に言って、日本で電子書籍はこれまでよりかはいくらか広がりと深まりを見せるだろうが、巷間いわれているようなアメリカにおけるような急速な展開は起こりえない、というものである。それは出版文化の歴史の厚みがちがうとか、英語のような文字数の少ない言語と日本語のような多文字言語のちがいがあるのは言うまでもない。もちろん、経済産業省が推進している「コンテンツ緊急電子化事業」のような公的バックアップがあって、大出版資本がそれにあわせてコミックや漫画、小説のような一過的な商品価値の高いものを便乗的に電子化しようとする動きがあるにはあるが、それらは冊子本というかたちで恒久的に保存すべき種類のものとは言えないものが多く、いずれにせよこの時代潮流のなかではおのずからほかの形式(ここでは主として電子書籍)に移行していくのは必然だからである。それに諸外国で人気のある日本のアニメやコミックが版権上の問題もあって、大手出版社がこれまでの利権を守ろうとする立場から早めに電子書籍化して版権を囲い込もうとする強い動機づけがあるからである。
しかし現在の出版界を見てみると、これまでの通常ルートである出版社~取次~書店~読者という流れは、オンライン書店の出現以来、読者のオンライン注文というかたちで流通の中抜き現象が生じることによって書店現場を中心に弱体化を招いているし、それ以上に、携帯電話等の異常な発達によって些末な断片情報への関心の一面化と短絡化が起こり、人間の知への欲求が急速に矮小化されてきている結果を生じており、そのための書物離れが一段と加速化している現状はもはや誰も否定できなくなっている。このぶんでは、1996年のピーク時の2兆6900億円という業界売上げの数字がすでにいま現在で3割ダウンしているものが、早晩、ピーク時の半分以下になるだろうことは十分に予測できる。つまり何年かのちには業界は半減期を迎えるということである。これは悲観的な観測ではなく、峻厳な現実の観測結果である。
そこで何が問題なのか。出版界は娯楽的にも情報的にも消費されたところで役目を終える出版物のための物量的産業であることをやめ、数は少ないけれど必要な読者にとって固有な価値をもつ出版物(という文化)をいかに生き残らせることができるようにするかを考えていくべきだろうということである。そうした出版物の大部分は電子書籍化には本質的に馴染まない種類の出版物である。つまりその種の出版物の電子化はあくまでもオリジナルあってのコピー、二次的派生物にすぎないということであって、出版物をおしのけてひとり歩きできるものではないということだ。言い換えれば、出版物は出版物としての固有性を維持しうるものだけが存在しつづけるようになるのではないか。
そのとき、これまでの物量的流通を支えてきた取次を中心とする出版業界の流通構造はそのまま残ることは考えにくい。大幅な業務縮小を強いられる流通構造は、これまでの量指向から多様性という質指向に転換することは簡単でないからである。したがって取次はもちろん書店においても量から質(多様性)への大きな方針転換や決断が避けられないということになる。そしてこのことは出版社においても同様であり、たんなる合従連衡といった小手先の調整で片づく話ではない。業界再編という大問題がこれからの避けようもない課題なのである。
もうひとつ問題なのは、現在の電子書籍化への流れが徐々にではあるが実現するとしても、携帯電話で些末な断片化した情報の処理に明け暮れている若者が(若者だけじゃないところおそろしいことでもあるが)質量ともにより大きな文字の文化に近づいていくことができるだろうか、という心配である。この場合、そうした若者たちは書物という形態はもちろん、電子書籍にさえも近づくようなことはないのではないか。読書とは習慣づけが必要な行為であり、そのための修練の場として携帯ではまったく不十分だからである。さきほども述べたように、情報や娯楽中心の出版物は電子書籍化されることでその目的はほぼ再現可能になるので、携帯からもアクセスしやすいかもしれない。とはいえ、そこには必要な最小限の情報をピンポイントで獲得するだけでよしとする習性から、より総体的な情報を取得しようとする動機づけまでにはおおきな距離があるわけで、したがって電子書籍がその手の読者を(出版物に代わって)獲得できることで出版物の売上げ減少分を補填することができると考えることは大いなる幻想と言わなければならない。出版物を手に取る習慣のないところに、電子書籍の可能性も低いはずである。専門書系出版社が電子書籍に積極的でない理由のひとつはそこにある。書物の価値をどうしたら広く理解してもらえるようにするのかが、電子書籍に走ることよりもはるかに切実な課題となるべきである。
もしかしたらアナクロに見えるかもしれないこうしたことを考えながら上村忠男さんの『ヘテロトピア通信』を読んでいたら、上村さんが姜尚中との対談のなかで自分がめざすべき知識人のイメージをつぎのように提示しているのを見つけた。《権力という巨象にうるさくまとわりついて離れない虻のような存在としての知識人》《社会なり時代なりに大きな動きが生じたとき、その動きにアイロニカルな批判的懐疑の眼差しを向けることを忘れない知識人》(同書220ページ)と。上村さんはこの知識人像をサイード的知識人と呼んでいる。知識人であるかどうかはともかく、出版界の流れに棹さして電子書籍化への流れを批判しているわたしなどまさしく《権力という巨象にうるさくまとわりついて離れない虻のような存在》であり、《社会なり時代なりに大きな動きが生じたとき、その動きにアイロニカルな批判的懐疑の眼差しを向ける》のはわたしがおおいに心がけていることである。この懐疑精神と闘争心を失なわないようにしたい。(2012/9/16)
(この文章は「西谷の本音でトーク」で掲載した「電子書籍という幻想」と「虻のような存在としての懐疑精神」を大幅に推敲して転載したものです。)