尾鍋史彦『紙と印刷の文化録――記憶と書物を担うもの』(2012年、印刷学会出版部刊)には昨今の電子書籍や専門書にたいする見解、出版の関連業界である製紙業、印刷業についての豊富な情報が盛り込まれていて、たいへん参考になった。尾鍋さんは東京大学大学院農学生命科学研究科、生物材料科学専攻、製紙科学研究室名誉教授、日本印刷学会・紙メディア研究会委員長を経て元日本印刷学会会長などを歴任し、紙の問題を包括的に扱う文理融合型学問としての〈紙の文化学〉を提唱している、いわば紙と印刷の専門家である。この本は「印刷雑誌」1999年1月号から2011年12月号まで13年間にわたって毎月連載された「わたしの印刷手帳」156篇のなかから70篇をセレクトして編集されている。わたしが昨年11月に刊行した『出版文化再生――あらためて本の力を考える』の長い書評を専門誌「紙パルプ技術タイムス」2012年3月号に書いてくれて、そのコピーとともに本書を恵贈されたものである。尾鍋さんとは、本書にも掲載されているように、書物復権8社の会が2006年5月16日に紀伊國屋ホールで「書物復権セミナー2006」の一環として「批評・教養の"場"再考/再興」セミナーを岩波書店と未來社で担当したさいに挨拶させてもらった記憶がある。
それはともかく、本書は長期連載コラムの集約であり、テーマごとに再編集してあるという点でもわたしの『出版文化再生』と似た性格をもつ。そのため時評的性格もあり、若干の繰り返しまたはその再展開といった趣きをもつ論点がいろいろ出てくるが、逆に問題点がその時点その時点でどのように捉えられ、どのように深められていったかを知るうえで非常にわかりやすくなっている。製紙業界や印刷業界に関連するさまざまな歴史的動向や問題点は本書によってほとんど初めて統一的に理解できるようになったし、電子書籍にたいする解釈も認知科学の確固とした理論にもとづいているので十分に信憑しうるものとなっている。
ここでは尾鍋さんの専門分野である製紙関連についてよりも、さしあたりわたしの関心に近いところを読み込んでみたい。
尾鍋さんは読書行為についてつぎのように書いている。
《ホモサピエンスとしての人間は人類が誕生したときから直立二足歩行と言語の使用というほかの動物とは異なった生物種としての優れた特徴があり、そのために成長過程における経験や学習により個人特有の精神世界を形成する能力をもっている。すなわち外部の新たな刺激や情報の入力により日々認知構造を再編成し、再構造化し、精神世界を深化させ、精神的な進化を遂げてゆくのが人間である。この刺激や情報の源泉として書物は格別に重要であり、読書による新たな知識は既存の認知構造にある知識と照合しながら知識を再配列し、長期記憶に定着させ、新たな認知構造を作ってゆく。すなわちミクロコスモスを能動的に変容させる能力をもつ読書という行為は個人の精神世界、人格形成に不可欠である。》(147ページ)
この認知科学的理論の導入による読書からの知識の学習、習得、脳内格納等のダイナミズムは尾鍋さんの創見によるものらしく、世界各地でもこの見地からの講演などをしてきたことがうかがわれる。ここで昨今の電子書籍と冊子本の読書行為にどのような違いが生ずるかが検討されている。
人間は紙の本であれ電子書籍であれ「読む」という行為を通じて情報処理をおこない記憶する。情報処理システムとして人間を捉えることができると尾鍋さんは言う。文字でも画像でも情報として視覚から脳内に入った場合、情報処理過程を経て記憶装置に格納されることになるが、その記憶装置には「短期記憶装置」と「長期記憶装置」があるとされる。「紙の書籍の場合には記憶を妨げる要素はなく、安定的に深く記憶装置に入っていくと考えられ」、「それまでに蓄えられた知識を新しい知識が入れ替えながら長期記憶装置に定着させ、人間の新たな知識となり、知性の向上に寄与することになる」(154ページ)が、電子書籍の場合には「紙の書籍にはない違和感が記憶を阻害し、短期記憶装置に留まってしまい、長期記憶装置に移行しにくい」(154-155ページ)。結論的には「電子書籍はとりあえず情報を読み取れるので一時的な情報の検索や娯楽および格別の目的を持たない読書には役立つが、知識が長期記憶装置には定着しにくいので、人間の知的な向上への寄与という面では紙の書籍が今後も優位性を持ち続けるだろう」(155ページ)というのが、本書全体を通じて尾鍋さんが一貫して主張している眼目である。
尾鍋さんがしばしば引用するマクルーハンのメディア理論によれば、「一般的に新しい技術が出現するとその新規性から市場形成能力が過度に評価され、既存技術に対する代替能力が過度に評価されがちとなるが、結局は新技術を人間と社会が受け入れるか否かが重要な点となる」ということであり、人間の親和性が最終的な審級であることになる。その点ですくなくとも尾鍋さんの世代やわたしぐらいの世代では、一時絡的な情報や知識の獲得のためならともかく専門書を通読し深く理解しようとするには紙の書籍による以外にはありえないとする結論が導かれることになる。
またアメリカでの電子書籍の広がりについても、アメリカでは西欧や東アジアのような紙の歴史も書物の歴史も浅いために書籍文化への敬意も薄いためだと一蹴している。
《人間の持つ好奇心という性質はどの民族にもある普遍的なものなので、電子書籍が市場に登場した初期段階ではどの国民も興味を持つと思われるが、紙や紙の書籍の長い文化的伝統を持つ国々では電子書籍の市場はアメリカほどには拡がらないだろう。》(158ページ)
こうした紙の書籍への信頼と敬意こそが書物の必然的存在理由を自明のものとすることは書物に深く関わってきた者にとってはわかりやすいところであるが、生まれたときからパソコンや携帯電話やネットに囲まれて生きていくことになる若い世代がこれからこうした書籍への信頼や敬意をもつ機会があるのかどうか、そうした世代が電子情報からの知識の習得、長期記憶装置への格納などの能力をどうやって身につけていくことにできるのかどうかも心配なところである。原発問題でも防衛問題でもそうだが、電子書籍の導入にあたっても、アメリカ主導の大国主義への無批判的追随はもういい加減にやめにしたらどうか。現世代が後世のために禍根を残すことのないように、目先の利益や新規性に短絡的に飛びつくのではなく、慎重な配慮をもって事態に取り組むべきであることを指摘しておきたい。
最後になるが、電子書籍がほんとうに商売として成立するかどうかへの危惧も尾鍋さんは指摘している。このこともしっかり検討しておくべき問題である。
《デジタルとネットワークはいったんそこに情報が載せられると、個々の情報の価値を限りなくゼロに近づける危険性を秘めている。電子書籍端末やネットワーク環境がいかに進化しようと、電子書籍ビジネスには利益が出にくいと言われるゆえんはこのような原理が背後にあるからだ。》(38ページ)(2012/5/6)
それはともかく、本書は長期連載コラムの集約であり、テーマごとに再編集してあるという点でもわたしの『出版文化再生』と似た性格をもつ。そのため時評的性格もあり、若干の繰り返しまたはその再展開といった趣きをもつ論点がいろいろ出てくるが、逆に問題点がその時点その時点でどのように捉えられ、どのように深められていったかを知るうえで非常にわかりやすくなっている。製紙業界や印刷業界に関連するさまざまな歴史的動向や問題点は本書によってほとんど初めて統一的に理解できるようになったし、電子書籍にたいする解釈も認知科学の確固とした理論にもとづいているので十分に信憑しうるものとなっている。
ここでは尾鍋さんの専門分野である製紙関連についてよりも、さしあたりわたしの関心に近いところを読み込んでみたい。
尾鍋さんは読書行為についてつぎのように書いている。
《ホモサピエンスとしての人間は人類が誕生したときから直立二足歩行と言語の使用というほかの動物とは異なった生物種としての優れた特徴があり、そのために成長過程における経験や学習により個人特有の精神世界を形成する能力をもっている。すなわち外部の新たな刺激や情報の入力により日々認知構造を再編成し、再構造化し、精神世界を深化させ、精神的な進化を遂げてゆくのが人間である。この刺激や情報の源泉として書物は格別に重要であり、読書による新たな知識は既存の認知構造にある知識と照合しながら知識を再配列し、長期記憶に定着させ、新たな認知構造を作ってゆく。すなわちミクロコスモスを能動的に変容させる能力をもつ読書という行為は個人の精神世界、人格形成に不可欠である。》(147ページ)
この認知科学的理論の導入による読書からの知識の学習、習得、脳内格納等のダイナミズムは尾鍋さんの創見によるものらしく、世界各地でもこの見地からの講演などをしてきたことがうかがわれる。ここで昨今の電子書籍と冊子本の読書行為にどのような違いが生ずるかが検討されている。
人間は紙の本であれ電子書籍であれ「読む」という行為を通じて情報処理をおこない記憶する。情報処理システムとして人間を捉えることができると尾鍋さんは言う。文字でも画像でも情報として視覚から脳内に入った場合、情報処理過程を経て記憶装置に格納されることになるが、その記憶装置には「短期記憶装置」と「長期記憶装置」があるとされる。「紙の書籍の場合には記憶を妨げる要素はなく、安定的に深く記憶装置に入っていくと考えられ」、「それまでに蓄えられた知識を新しい知識が入れ替えながら長期記憶装置に定着させ、人間の新たな知識となり、知性の向上に寄与することになる」(154ページ)が、電子書籍の場合には「紙の書籍にはない違和感が記憶を阻害し、短期記憶装置に留まってしまい、長期記憶装置に移行しにくい」(154-155ページ)。結論的には「電子書籍はとりあえず情報を読み取れるので一時的な情報の検索や娯楽および格別の目的を持たない読書には役立つが、知識が長期記憶装置には定着しにくいので、人間の知的な向上への寄与という面では紙の書籍が今後も優位性を持ち続けるだろう」(155ページ)というのが、本書全体を通じて尾鍋さんが一貫して主張している眼目である。
尾鍋さんがしばしば引用するマクルーハンのメディア理論によれば、「一般的に新しい技術が出現するとその新規性から市場形成能力が過度に評価され、既存技術に対する代替能力が過度に評価されがちとなるが、結局は新技術を人間と社会が受け入れるか否かが重要な点となる」ということであり、人間の親和性が最終的な審級であることになる。その点ですくなくとも尾鍋さんの世代やわたしぐらいの世代では、一時絡的な情報や知識の獲得のためならともかく専門書を通読し深く理解しようとするには紙の書籍による以外にはありえないとする結論が導かれることになる。
またアメリカでの電子書籍の広がりについても、アメリカでは西欧や東アジアのような紙の歴史も書物の歴史も浅いために書籍文化への敬意も薄いためだと一蹴している。
《人間の持つ好奇心という性質はどの民族にもある普遍的なものなので、電子書籍が市場に登場した初期段階ではどの国民も興味を持つと思われるが、紙や紙の書籍の長い文化的伝統を持つ国々では電子書籍の市場はアメリカほどには拡がらないだろう。》(158ページ)
こうした紙の書籍への信頼と敬意こそが書物の必然的存在理由を自明のものとすることは書物に深く関わってきた者にとってはわかりやすいところであるが、生まれたときからパソコンや携帯電話やネットに囲まれて生きていくことになる若い世代がこれからこうした書籍への信頼や敬意をもつ機会があるのかどうか、そうした世代が電子情報からの知識の習得、長期記憶装置への格納などの能力をどうやって身につけていくことにできるのかどうかも心配なところである。原発問題でも防衛問題でもそうだが、電子書籍の導入にあたっても、アメリカ主導の大国主義への無批判的追随はもういい加減にやめにしたらどうか。現世代が後世のために禍根を残すことのないように、目先の利益や新規性に短絡的に飛びつくのではなく、慎重な配慮をもって事態に取り組むべきであることを指摘しておきたい。
最後になるが、電子書籍がほんとうに商売として成立するかどうかへの危惧も尾鍋さんは指摘している。このこともしっかり検討しておくべき問題である。
《デジタルとネットワークはいったんそこに情報が載せられると、個々の情報の価値を限りなくゼロに近づける危険性を秘めている。電子書籍端末やネットワーク環境がいかに進化しようと、電子書籍ビジネスには利益が出にくいと言われるゆえんはこのような原理が背後にあるからだ。》(38ページ)(2012/5/6)