北川東子さんが乳ガンの宣告を受けたのは二〇〇九年十一月十八日のことである。なぜその日だとわかるのかと言えば、北川さん本人からその日にこの話を聞いたからである。小林康夫さんと仕事の打合せに下北沢の行きつけの店で会っているところに北川さんも来られて、きょう宣告を受けてきたのだと突然われわれは報告されたのである。かなり末期的とのことでショックを受けていたようで、二人でいろいろ励ましたことを覚えている。そしてしばらくこの話は内密にしようということになった。ただいずれにせよ、そんなに長くは保たないのではないかという懸念があって、なにか問題が生じたらわれわれ二人が力になろうということでその晩は早めに帰宅してもらった。
その後、北川さんの自宅に近い八王子のほうにいい病院があるということで入院され、放射線治療の効果もあってか、思った以上に回復したときもあったようである。ところが昨年八月十六日に北川さんから電話があり、しばらく話をした。放射線治療を受けているが、なかなかマーカーが下がらないとのことだった。そのときは政治や原発事故の批判の話題になったが、東大駒場のあるドイツ語関係者の対応など微妙な話もいろいろ聞いて、暗澹たる気持ちになった。結局、北川さんと話をしたのはそれが最後になってしまった。そして二〇一一年十二月二日、ついに来るべきものが来てしまったのであるが、ガンの宣告から二年、いろいろ苦しかっただろうが、よく頑張ってくれたのではないかといまは思うしかない。
*
こういう交友関係ができるようになったのは、一九八八年にわたしが旧知の竹内信夫さんに頼んで東大駒場の若手教官たちとの勉強会を作らせてもらいたいと提案したことに端を発している。そこに小林康夫さんや、以前から知っていた湯浅博雄さん、桑野隆さんのほかに初対面の高橋哲哉さん、船曳建夫さんと北川東子さんが加わってくれることになった。わたしの記録によると、その年の七月十三日に渋谷で初会合をおこなっており、まわりもちでレポーターがなにかテキストを決めて月例で勉強会をおこなうことになった。この会の名前は小林さんの提案で《扉の会》(未来の扉を開くという意味だったと記憶する)となり、わたしが連絡と設定の係となって、一九九〇年代はじめまで三年間ほどほぼ毎月おこなわれた。この会は竹内さんを最年長として四十代前半から三十代前半の七名のまさにこれから日本を代表する研究者・論客になろうとしているひとたちが集った、ある意味では歴史的な研究会であったと言ってよいかもしれない。
そこでの喧喧諤諤の熱い議論の一端をわたしがテープ起こししたデータは残っているが、それは公表しないという事前の原則のために陽の目をみないままになっている。学問研究のありかたをめぐる考え方をぶつけあった、それぞれにとってもその後の仕事を展開するための有益な場になっていたと思う。そこに参集されたひとたちとその後、出版の仕事をつうじていろいろと深いかかわりをもたせてもらうようになったのは、まさにこの会の成果であった。昨年の未來社六〇周年のために刊行された社史『ある軌跡』に《扉の会》の何人かに執筆していただいたが、一様にこの会について言及されているのも、そうしたインパクトがそれぞれの方に残っていることの証跡であると言えそうで、感慨深いものがある。
*
北川東子さんとはフーゴ・オットの大著『マルティン・ハイデガー──伝記への途上で』(一九九五年刊、故・藤澤賢一郎さん、忽那敬三さんとの共訳)の仕事しか実現できなかったのだが、じつは北川さんに女性哲学者としての思索をまとめてもらおうという企画をあるとき思いついて、筆の遅い北川さんにとにかく原稿を書いてもらうにはどうすればいいかと思案した結果、二〇〇六年から往復メールのかたちでこちらが質問を発し、それにたいして一週間以内に最低五枚以上の論考で返信してもらうという約束でひとつの試みを始めることになった。北川さんも最初は乗り気でなんとか三回ほどでいくつかのテーマに分けた返答をもらったあと、続かなくなってしまった。タイトルもこちらの提案で『女の哲学』とまで決まっていて、うまくいけば日本で初めての本格的な女性による哲学書が生まれるはずであった。
それはこんな文章から始まっている。
《若い人からは想像もつかないだろうが、意識のなかで年月が残してくれる痕跡はひどく頼りない。実は、私も半世紀以上、この世に生きてきたのだ。もう随分長いこと生きてきた気がするし、まだまだ人生の初心者という気もする。数を数えれば、確かに五〇年以上の生命と、二〇年以上の職業生活とがあったのだ。けれど、相も変わらず成熟できなくて、相も変わらずなにもわかっていない気がする。ただ一点だけ、そこそこの年月生きてきたことの実感がある。この五〇年以上、「女として生きてきた」という実感である。
そう、私は、もう随分長いあいだ、「女として」生きてきた。そうして、この随分の長い年月、「女として」という事態につきあってきた。》
なんだかプルースト的な始まり方だと言えなくもないが、このあとにつづく文章はまさに自分の生誕から幼少女期の経験をその家庭環境までふくめて現時点であらためて洗い直すというかたちで開始されようとしている。自分では「ただひたすらとりとめもないことを書いている気がします」と書きつつも、ここから「戦後日本における道徳的心性の修復という問題とジェンダー」とか「例外状態と日常性をつなぐ女体の意味」とか「女はいつ『産みたい』気持ちになるのか」とか「『産む性』にとっての民族とは」といった小タイトルの付けられた文章がとにかく書かれたのである。未整理のままであったとはいえ、これがどういうふうに展開していくのかはおおいに期待していかなければならないはずであったのに、こちらの追求不足もあって、この企画がこのままになったことがいまとなっては取り返しがつかないことになってしまった。
北川東子さんは日本語の著作が少ないために、ほんとうの力量が一般に知られることなく亡くなってしまった。わたしなどが喋々すべくもないが、北川さんのドイツ語の力、その読解力などには端倪すべからざるものがあり、こうした力量を発揮する機会をもっともっと提供すべきだったと思うと、その早すぎる死が悔やまれてならないのである。
*この稿は「20 北川東子さん追悼ワークショップ『北川東子と女性の哲学』」の注で予告したように、小林康夫編『〈時代〉の閾──戦後日本の文学と真理』(UTCPブックレット25、2012年3月刊)に収録されたものであり、ブックレット刊行後に「出版文化再生ブログ」への転載を了解してもらったものである。前稿と重複するところがあるが、あわせてお読みいただければさいわいである。(2012/4/1)
その後、北川さんの自宅に近い八王子のほうにいい病院があるということで入院され、放射線治療の効果もあってか、思った以上に回復したときもあったようである。ところが昨年八月十六日に北川さんから電話があり、しばらく話をした。放射線治療を受けているが、なかなかマーカーが下がらないとのことだった。そのときは政治や原発事故の批判の話題になったが、東大駒場のあるドイツ語関係者の対応など微妙な話もいろいろ聞いて、暗澹たる気持ちになった。結局、北川さんと話をしたのはそれが最後になってしまった。そして二〇一一年十二月二日、ついに来るべきものが来てしまったのであるが、ガンの宣告から二年、いろいろ苦しかっただろうが、よく頑張ってくれたのではないかといまは思うしかない。
*
こういう交友関係ができるようになったのは、一九八八年にわたしが旧知の竹内信夫さんに頼んで東大駒場の若手教官たちとの勉強会を作らせてもらいたいと提案したことに端を発している。そこに小林康夫さんや、以前から知っていた湯浅博雄さん、桑野隆さんのほかに初対面の高橋哲哉さん、船曳建夫さんと北川東子さんが加わってくれることになった。わたしの記録によると、その年の七月十三日に渋谷で初会合をおこなっており、まわりもちでレポーターがなにかテキストを決めて月例で勉強会をおこなうことになった。この会の名前は小林さんの提案で《扉の会》(未来の扉を開くという意味だったと記憶する)となり、わたしが連絡と設定の係となって、一九九〇年代はじめまで三年間ほどほぼ毎月おこなわれた。この会は竹内さんを最年長として四十代前半から三十代前半の七名のまさにこれから日本を代表する研究者・論客になろうとしているひとたちが集った、ある意味では歴史的な研究会であったと言ってよいかもしれない。
そこでの喧喧諤諤の熱い議論の一端をわたしがテープ起こししたデータは残っているが、それは公表しないという事前の原則のために陽の目をみないままになっている。学問研究のありかたをめぐる考え方をぶつけあった、それぞれにとってもその後の仕事を展開するための有益な場になっていたと思う。そこに参集されたひとたちとその後、出版の仕事をつうじていろいろと深いかかわりをもたせてもらうようになったのは、まさにこの会の成果であった。昨年の未來社六〇周年のために刊行された社史『ある軌跡』に《扉の会》の何人かに執筆していただいたが、一様にこの会について言及されているのも、そうしたインパクトがそれぞれの方に残っていることの証跡であると言えそうで、感慨深いものがある。
*
北川東子さんとはフーゴ・オットの大著『マルティン・ハイデガー──伝記への途上で』(一九九五年刊、故・藤澤賢一郎さん、忽那敬三さんとの共訳)の仕事しか実現できなかったのだが、じつは北川さんに女性哲学者としての思索をまとめてもらおうという企画をあるとき思いついて、筆の遅い北川さんにとにかく原稿を書いてもらうにはどうすればいいかと思案した結果、二〇〇六年から往復メールのかたちでこちらが質問を発し、それにたいして一週間以内に最低五枚以上の論考で返信してもらうという約束でひとつの試みを始めることになった。北川さんも最初は乗り気でなんとか三回ほどでいくつかのテーマに分けた返答をもらったあと、続かなくなってしまった。タイトルもこちらの提案で『女の哲学』とまで決まっていて、うまくいけば日本で初めての本格的な女性による哲学書が生まれるはずであった。
それはこんな文章から始まっている。
《若い人からは想像もつかないだろうが、意識のなかで年月が残してくれる痕跡はひどく頼りない。実は、私も半世紀以上、この世に生きてきたのだ。もう随分長いこと生きてきた気がするし、まだまだ人生の初心者という気もする。数を数えれば、確かに五〇年以上の生命と、二〇年以上の職業生活とがあったのだ。けれど、相も変わらず成熟できなくて、相も変わらずなにもわかっていない気がする。ただ一点だけ、そこそこの年月生きてきたことの実感がある。この五〇年以上、「女として生きてきた」という実感である。
そう、私は、もう随分長いあいだ、「女として」生きてきた。そうして、この随分の長い年月、「女として」という事態につきあってきた。》
なんだかプルースト的な始まり方だと言えなくもないが、このあとにつづく文章はまさに自分の生誕から幼少女期の経験をその家庭環境までふくめて現時点であらためて洗い直すというかたちで開始されようとしている。自分では「ただひたすらとりとめもないことを書いている気がします」と書きつつも、ここから「戦後日本における道徳的心性の修復という問題とジェンダー」とか「例外状態と日常性をつなぐ女体の意味」とか「女はいつ『産みたい』気持ちになるのか」とか「『産む性』にとっての民族とは」といった小タイトルの付けられた文章がとにかく書かれたのである。未整理のままであったとはいえ、これがどういうふうに展開していくのかはおおいに期待していかなければならないはずであったのに、こちらの追求不足もあって、この企画がこのままになったことがいまとなっては取り返しがつかないことになってしまった。
北川東子さんは日本語の著作が少ないために、ほんとうの力量が一般に知られることなく亡くなってしまった。わたしなどが喋々すべくもないが、北川さんのドイツ語の力、その読解力などには端倪すべからざるものがあり、こうした力量を発揮する機会をもっともっと提供すべきだったと思うと、その早すぎる死が悔やまれてならないのである。
*この稿は「20 北川東子さん追悼ワークショップ『北川東子と女性の哲学』」の注で予告したように、小林康夫編『〈時代〉の閾──戦後日本の文学と真理』(UTCPブックレット25、2012年3月刊)に収録されたものであり、ブックレット刊行後に「出版文化再生ブログ」への転載を了解してもらったものである。前稿と重複するところがあるが、あわせてお読みいただければさいわいである。(2012/4/1)