沖縄の自己決定権とは?
沖縄の自己決定権というのは、たしかに民族自決運動という観点から見ることもできるけど、そんな過去の国家に戻るような発想ではなくて、うまく世界規模のステージを沖縄に作ってくれと。私は「地球こそ人類の聖地である」「国境主義からの独立」と言ってきましたが、人類の普遍的未来のなかでの自己決定権を作っていくということです。
未来へ向かっての独立
国連は今回の基地問題で勧告を出しています。日本国政府は沖縄のことを差別していると言っている。沖縄を先住民として認知しなさいと勧告している。民族の自決権、それから自然権、資源権、自分たちの独得の文化をもつことの権利を、日本は認めなさいと言っているのです。沖縄はこの勧告を大きな財産だと思わなければなりません。いまから私がそれを組み立てていきます。わけのわからない琉球王朝に戻るようでは困ります。過去に向かって独立してはならないんです。未来に向かって独立していかなければならない。
右翼(うよく)でも左翼(さよく)でもなく、中翼(なかよく=仲良く)
右翼も左翼も目覚めさせればいいんですよ。どこからアプローチすればいいかというと、沖縄を使えばいいのです。祖先崇拝、祖先を大事にする、それが沖縄の文化であるし宗教である。哲学というのはそういうもので作ればいいんです。喜納さんは哲学的には右翼ですか、あるいは左翼ですかと聞かれたら、私は左翼でもない右翼でもない、中翼(なかよく=仲良く)ですと答えます。
音楽は天職、政治は本職
私の天職は音楽で、政治は本職という話をよくします。私が主人公なんだから、私が音楽をやり政治をやるんだ、と。なにも政治が主人公だったり音楽が主人公だったりするわけじゃなく、私が主人公なんだから、なにをやってもいいと言うんですよ。私が決定する、自己決定(笑)をしているんだ、とね。音楽をやっているから政治家をやっちゃいけないとか、誰がそういうボーダーを作るんですか? こうした点を私はずっと指摘してきたわけです。
いま、沖縄民族が立ち上がっている
われわれ沖縄民族は、平和憲法のなかに帰ろうとして復帰運動をしました。そして復帰したら、本土並みという話が、ほとんど虚構のなかに散ってしまったわけです。そのことを日本人はずっと見ぬふりをしてきたはずです。ほんとうに知らなかったと言うのならば、なぜ知らなかったのか。今回の基地問題というのは、そういうことの総括でもあるはずなんです。沖縄民族が、自我と主権意識に目覚め、いま立ち上がっているわけです。
沖縄の基地は国連へ
沖縄に基地を残すならば、一国の基地ではなく、アメリカの基地でもなく、日本の基地でもなく、中国の基地でもなく、国連軍の基地として運営していけばいいんですよ。国連軍となれば、どこと戦争する? 戦争はできないです。これは軍事力の無力化です。
護憲論・改憲論を越える活憲論へ
護憲論の限界と改憲論の危険性を飛び越えた活憲論というものがあるはずです。より平和な憲法に切り替えていくという、新しい概念革命が必要だということを言いたいわけです。それはグローバル世界を見据えた改憲です。地球を呑み込む、人類を呑み込むぐらいの改憲論を日本が出せるかにかかっています。私は活憲論に立ちます。
国境主義からの独立
本質的に、生命には国境がないということを私は発見したんです。人間が作った電波でさえも国境を越えて動いていますよね。食物連鎖の頂点に立っている人間だけが国境をもっている。要は利権を守るために国境があるんですよ。利権というもの全部、地球から奪ったものです。この利権を循環させるためには、国境をなくすしかないという思いに私は達したんです。国境主義から独立するしかないんです。
あなたも中心、私も中心
すべてが動いている。天も動いているし、わが地球も動いている。そうなるとどうなるかと言うと、すべてが動いているならば、すべてが中心であるはずです。あなたも私もみな中心だから、この地球はすべての中心の集合体ですよ。そういう哲学をもった人間が生まれてくるようになれば、そこではじめて個人の主体性が自立する。西洋のグローバリストはまだそれに気づいていません。白人が至上の中心であると思っているんですね。そこに白人のグローバル性の限界があるわけです。あなたも中心、私も中心。すべては動いているんだ、と。互いに認め合うことです。
沖縄の歴史と喜納昌吉
1946年 | GHQ宣言により北緯三〇度以南がアメリカ軍政下におかれる。 | |
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(0歳)6月10日、沖縄民謡の大家・喜納昌永の子としてアメリカ占領下の沖縄旧コザ市に生まれる。 | 1948年 | |
1952年 | アメリカ合衆国による琉球政府創設。 | |
1953年 | 奄美群島日本復帰。 | |
1960年 | 新日米安保条約に基づき日米地位協定締結。 | |
(12歳)旧桃山中学校入学。「ハイサイおじさん」を作詞・作曲。 | 1961年 | |
(15歳)普天間高校入学。 | 1964年 | 新日米安保条約に基づき日米地位協定締結。 |
1965年 | 佐藤栄作首相沖縄訪問。 | |
(18歳)旧国際大学入学(現沖縄国際大学)。 | 1967年 | |
(19歳)喜納昌吉&チャンプルーズ結成。 | 1968年 | |
1969年 | 日米首脳会談で米大統領ニクソンが沖縄返還を約束。 | |
1970年 | コザ暴動、5000人余の群衆が蜂起。 | |
1972年 | 沖縄日本復帰。 | |
1973年 | 金武湾石油備蓄基地(CTS)反対運動おこる。 | |
(28歳)11月、ファースト・アルバム『喜納昌吉&チャンプルーズ』発表。 | 1977年 | |
1978年 | 7月30日、自動車の対面交通が左側通行となる。 | |
(31歳)第1回「うるま祭り」にて沖縄のオリジナルな文化の復興を提唱。 | 1980年 | |
(37歳)第1回「ニライカナイ祭り」にて沖縄の精神的遺産の重要性を訴える | 1986年 | |
(38歳)第2回「うるま祭り」に北海道アイヌの長老47名を招く。 | 1987年 | |
(41歳)第2回「ニライカナイ祭り」にて沖縄の神事イザイホー復活を訴える。 | 1990年 | 大田昌秀知事就任。 |
(42歳)第42回NHK紅白歌合戦に出場。「花~すべての人の心に花を~」を歌う。 | 1991年 | |
(44歳)第3回「ニライカナイ祭り」に世界各地の先住民族を招く。 | 1993年 | |
(46歳)「サバニ・ピース・コネクション」にて平和のメッセージを広島・長崎市長に届ける。 | 1995年 | 米兵少女暴行事件。大田昌秀知事、軍用地収用代理署名を拒否。SACO設置。 |
(47歳)アトランタ・オリンピック公式文化イベントに出演。 | 1996年 | 普天間基地の移設条件付返還合意。 |
(49歳)「白船~White Ship of Peace~」にて国連アナン事務総長に「すべての武器を楽器に」の署名を届ける。 | 1998年 | 基地県内移設容認派の稲嶺恵一知事就任。 |
(50歳)韓国にて日本文化解放後初のコンサート開催。台湾にて地震被災地支援コンサート開催。 | 1999年 | |
(51歳)韓国、北朝鮮にてコンサート開催。 | 2000年 | 主要国首脳会議(沖縄サミット)開催 |
(54歳)イラクにてコンサート、ピースアクション実施 | 2003年 | |
(55歳)参議院議員選挙に民主党比例区より出馬、初当選。民主党沖縄県連代表就任。 | 2004年 | 沖縄国際大学米軍ヘリコプター墜落事件。 |
(57歳)「民主党21世紀沖縄ビジョン改訂版」を発表。 | 2006年 | 仲井眞弘多知事就任。 |
(60歳)沖縄県民大会にて「沖縄の自己決定権」演説。 | 2009年 | 読谷村米兵ひき逃げ死亡事件。 |
(61歳)迷走する沖縄問題に「平和の哲学」をもって挑みつづける。 | 2010年 | 名護市長選、基地県内移設反対派の稲嶺進氏当選。鳩山首相就任後初の沖縄訪問。 |